三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

東日本大震災 あの時 No.120

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2011年3月11日から間もなく11年。

今この場所(沿岸部)にいることは、当時はまったく想像できない展開です。

前日の3月10日(2011年)。

たまに依頼がある便利屋さんと現地集合で作業したのは「ゴミ屋敷」。

昼なら1時間半のところ、朝2時間かかって県南の内陸部までトラックを走らせました。

見てびっくり!!そこは今までで!最強!のゴミ屋敷でした。

2階建て5部屋の1戸建ては「座って鴨居をつかむ」高さまで部屋中ごみが積んでありました。

鴨居の高さは人の背の高さより高く175㎝はあったでしょうか。

通常なら立ってつかむところ、ごみの上に乗り(座り)肘を曲げたところに鴨居はありました。

台所の流し台の高さまでごみが積もり、風呂場は詰め込まれたごみでもちろん使えず、トイレのドアが開かない!!(どうやって住んでいたのだろう??)

2階の2部屋も半分の高さまでごみで埋まっていました。

1日がかりで、とりあえず6畳の茶の間(?)のごみを撤去、リサイクルできるものをトラックに積み込みました。

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翌日、他の部屋を発掘していた(片付けていた)午後、突然激しい揺れが襲い、肘を曲げて鴨居をつかめたのはラッキーだったのでしょうか??

あまりのゴミの量に「倒れる心配」がないのはラッキーだったかもしれません。

震度5か6くらいかな?と思いつつ作業再開!しましたが、1時間ほどしたところで(午後4時)家まで戻ることにしました。

表に出るとなんか雰囲気が違う!

「とんでもない量の車」が両方向道路を埋めていました。

国道4号線が動かないので脇道にそれましたが、やがて渋滞、また脇道へ、すぐ渋滞、そのまた脇道へ・・。

結局4時間かかって家に着いた時はまだ電気があり、テレビから流れる沿岸部の惨状に息をのみました。

内陸部にいて電気がなければ沿岸部の情報を知るよしもありません。

内陸部でも地盤の強弱がその後の生活を大きく左右することになりました。

家は幸い山を削った土地、固い地盤で震度6にもかかわらず被害はそれほど出ませんでした。

沢があった場所に建てられたマンションなどは部屋により損傷具合が大きく違い、修理の条件をめぐり交渉が難航したりたいへんそうでした。

 

翌日に止まった電気も水道やガスが復旧する前に復活。

トラックとワゴン車を必要最低限動かし、ガソリンスタンドには1回並んだだけで済ませることができたのも幸いでした。

食べ物を売っている店を見つけたら買う、開いている飲食店があれば食べる・・・。

4月の声を聞くころには売り物の冷蔵庫が2m動いてショーウィンドウのガラスがほとんど割れた店も片付け、少しずつ元の生活に戻っていきました。

「名残り」は今でも大きくうねって段差の直らない店への入口に見られますが、商売をやめて考えなくてもよくなり・・。

沿岸部では津波の被害がなければ被害者ではないと言われた人もいましたが、程度の差こそあれ被害は被害。

心に受けた被害もひとそれぞれです。

防潮堤やら河川の整備やら、12年目に入った各種工事はこれからも続く・・・。

予算ある限り・・・。

沿岸部のあちこちに見られる空地は、ほぼそのまま行くのかもしれません。

将来に向かって・・・。

地震台風豪雨などでの自然災害はいつでもどこでも・・・

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