三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

昭和の東西ヨーロッパ行 110 南部 国境周辺まで 山また山 オーストリア No.601

月初めにポスト投函される各種広報誌。

県政だよりの特集は「プラスチックは資源」、一方今いる市の広報は「プラスチックは燃やせるゴミ」に、わかっていてもなんだかな~のへき地県境民です。

「燃える、燃えない、資源」は自治体次第、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月16日(水)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けオーストリア滞在14日目

(地図と写真と小さな文字はグーグルマップより)

 

イタリア経由がダメで(*周遊パスが使えない)で大回りした因縁の地、南部の街リーエンツ(地図↑↑・中央下・フィラハ左あたり)

 

日本の(お堅い)公営ユースホステルのように、午後10時消灯・午前7時半~8時朝食(*台所を使える・ホットチョコレートのみ買える時間/なんじゃそりゃ〜!?)の宿に名残惜しさはまったくないけれど、駅から見える見事な岩山にスイスを思い出すバックパッカー

 

9時。

そのすがすがしい景色をお土産に出発しました。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipODma-MKCkcknEc00FIFBIDt2JjI3LGx9ounYhn=w533-h240-k-no

(南部リーエンツの街中 なんとなく陽気なイタリアの雰囲気?)

 

本日は昼間南部フィラハクラーゲンフルト(地図↑↑・中央下)あたりをうろうろし、夜までに第二の都市グラーツ(地図↑↑・右下)へ。

 

16日間有効の「オーストリアチケット*周遊パスも残すところあと4日。

16日もある割に乗り残しが多いのには理由がありました。

国土面積が北海道ほどでも、ローカル線の少ない本数で接続(乗り継ぎ)に難がある

・夜行列車に乗ると、降りた日の出発地点がほぼ決まってしまう

周遊パスで一部ドイツ内を通過できてもイタリア内は通過できない(*線路は1本

国鉄時代の北海道/九州ワイド周遊券のようにスムーズにはいきませんでした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPpIDHdoIpicJ1laoUCAUlwfUOjpPrUyUp1S_HY=w426-h240-k-no

(沿線の集落)

 

南部ローカル線沿いにも湖が数あり、湖上に帆を張ったヨットやボートが見えました。

そして、岸辺には人・・・・。

(便せんメモより)「あれはまさしくオーストリアの湘南だ」

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPRxNTmMW7dfntlW9uqNd6LQy-2R-PfTbyh5C1I=w408-h306-k-no

(沿線)

 

そんな中、ユーゴスラビア/現スロベニア国境近くを走る2両のディーゼルカーは圧巻でした。

長さわずか14m(*JR在来線は20m)、最高速度90㎞/h、1965年製のレトロな車両が道路が(見え)ない木々ばかりの山の中をひた走り・・・。

(メモより)「いくつかの川をまたぎ、時折小さい駅に着く、えらいへき地線」

それでもそれなり人は乗っているのが不思議でした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOdVG13aN-yb77WsjtyhK0lfYz1-pXGkm9XYQ5o=w408-h306-k-no

ユーゴスラビア/現スロベニア国境近くの町 ローゼンバッハ 検問所)

 

なんとこの国境線、日曜日は全便バスになるというから驚きです。

理由は、、、想像もつきません。

 

このあと針路を東にとればしばらく平地を走り、沿線の畑に見えるは麦ととうきびばかり。

いままでの国で見かけた牛や馬や羊などは皆無でした。

 

途中の国境駅でついにユーゴスラビア/現スロベニアディーゼルカーを発見!

クリーム色の車体に赤線の2両はやはりかなり古いもので、”東西格差”がここにもありました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPoWVwR9vnZoTs3UMJ_uSR1T8k9p9FCSErpadUC=w408-h306-k-no

(沿線)

 

夕刻。

国境近くから東北に針路を変えれば、通勤客は乗り、いつの間にか降り、元のガラガラな車内・・・。

やがて南部に続いた平地から景色は一変しました。

列車は山の谷を登り、それに伴い自然と駅間は長くなっていきました。

このような険しい場所は、並行する後で作られたであろう道路の方が真っすぐで快適(*有利)そうに見えましたが、極端に車が少ない・・・(人が住んでいない)。

 

(メモより)「ド田舎とはこのことか」

このあたりは「山間部の小さな村に滞在してみたい」と思わせるには充分な大自然でした。

 

7月中旬、このところ日暮れもだいぶ早くなってきました。

大自然の中の傾きかけた夕日にオーストリアの落ち着きを見た」

 

夕闇の中、第二の都市グラーツ(地図↑↑・右下)に着くころにはすでに22時。

今夜は夜行列車で初めてウィーン南駅へ向かいます。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPgipCVeVekHKDzi6-ydKPN6kktENszzhNt5Dgn=w408-h306-k-no

(現在のグラーツ中央駅)

 

## 気づき ##

・今まで乗った車両は全て”客車”で、電車でもモーターのついた車両が一つもない   

 のは”列車の前後か中ほどに客の乗らない電動制御車があるため”

 そのため床下スッキリ・車内は静か(*ディーゼル カーを除く)

どうりでモーターがうなる音が聞こえなかったわけです。

 

 つづく

 

 

 

昭和の東西ヨーロッパ行 109 回りきれない保存鉄道 ここにも SL オーストリア No.600

1kg430円で見つけた隣県の茎わかめ(塩蔵)を使っていたら、アマゾンの小分けされた1kg業務用3582円(実質送料込)を見つけあまりの差額に驚く、へき地県境民です。

沿岸部に来てからわかめに種類や等級があることを知りましたが、味オンチには、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月15日(火)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在13日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

首都ウィーン(地図↑↑・右上)でなんとか東欧ポーランドチェコスロバキア(現チェコスロバキア)のビザを取得し定番となった西行夜行列車に乗れば、再来(来襲)した”午前2時半の検札恐るべし・・・。

 

6時半。

寝不足でさえない顔のまま降り立ったインスブルック駅(地図↑↑・左)何度目か・・。

今日こそはゆっくりしたいと思い、前回満員で断られたユースホステルまで歩くこと25分。

なぜかそこに管理者の姿はなく、宿泊者に聞いても「知ら〜ん」でリベンジ失敗!

 

(便せんメモより)「粘った前回と違い今日はすぐにあきらめた」

 

ユースホステル」と一口で言っても、国により内容や条件はさまざまでした。

加えて個別差も・・・・・・。

オーストリアの場合、”数や収容人数・設備の少なさ”にバカンスシーズンの旅行者が加わり、利用をいっそう難しくしていたと言えます。

 

さてこれからどうするか?と一計を案じれば、鉄道ファンがすぐに思い浮かぶは”まだまだ国内各地に残る私鉄ローカル線(保存鉄道)”の存在でした。

 

そこで8時40分発の急行に乗り、ウィーン(東)方面に戻ること20分。

イェンバッハ(地図↑↑・インスブルックの”ク”あたり)という小さな駅から「地球の歩き方(*当時の旅のバイブル)」に載っていない、線路幅768㎜(*かなり狭い)の私鉄ローカル線(*保存鉄道)に乗ることにしました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNt_TR9_sl4qjn0RyzgCUv1UlOrh86V0gZG_qjT=w408-h306-k-no

(イェンバッハ こんな小さな村にも私鉄・保存鉄道が二つあり、それは今でも

 

7月中旬の平日午前。

小さなディーゼル機関車がけん引する3両の客車は南に向かい、さっそく途中から乗って来た”バカンス軍団(観光客)”によって”満員”に・・・。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMo3CNPFEJaInuLSeGZtuKcxZMDhQvbFbdZFX80=w408-h306-k-no

(私鉄・保存鉄道の途中駅)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipO63TjLtQgDvAicpf51WhQhe0sJK1vXJEoAfDtf=w426-h240-k-no

ディーゼル機関車がけん引する客車 ここでも紅白オーストリア色)

 

このあたりは沿線の集落で車が渋滞するほど”バカンスを過ごす人々”でにぎわっている様子でした。

それは毎年恒例の夏祭りそのもの。

宿泊施設もそこかしこにあるはあるは・・・。

左右に連なる山々に多数見えるリフトゴンドラはすごい景観!

夏冬にぎわうリゾート地はこちらに限らず、国内あちこちに見受けられました。

さすが山国オーストリアです。

(メモより)「川沿いの散歩道も言うに及ばず・・・(*人・)」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNdPyL53ybLEds10PRT6cf-u6_rNih1B5H8PZUc=w408-h306-k-no

(SL保存鉄道とディーゼル機関車がけん引する客車)

 

途中で起点駅イェンバッハまで引き返すと、反対の北側へ向かうミニSLとミニ客車の姿が見えました。

ミニSLは動輪(車輪)が二つ(大井川鉄道にあるのは三つ)でけん引するのはこれまたかわいい客車です。

親切なる”日本語の説明文(*不便な場所まで日本人が来るあかし)”によると、この線はヨーロッパで最も古い”アプト式鉄道(*レール以外に歯車をかみ合わせて昇り降りする)”とのこと。

 

(メモより)「日本人何人かが乗った満員の”おとぎ列車”は行ってしまった」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMAyJxqvq8Qy3ToHUkWPypDbyAiXHUB4y3aXt5Q=w408-h725-k-no

ミニSLとミニ客車)

 

11時。

前回、周遊パスは「ドイツ経由オーストリア線は有効・イタリア経由線は無効」と車掌に言われ訪れることかなわなかった南部リーエンツ(地図↑↑・中央下・フィラハ左)。

ならばとイタリアを通らずに向かいましたが、ぐるっと大きく迂回(競輪で言えば”まくる”感じ)することがわかり、複数乗継げば所要時間はなんと7時間!・・・。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPzWPeVY0Hjxh8SE7-_Q7ARDi5cttcr4DxUz0tU=w408-h279-k-no

(沿線)

それでも一部前回と重なって通った区間は空がきれいに澄み渡り、山々はくっきり見え、前回の低く垂れこめた雲が見せる不気味な光景とは一線を画していました。

オーストリアは変わりやすい山の天気を体感できる場所です。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipN1HtKhc_BUYlVMRdLpt-M3s92ey19_tKHu5N7t=w426-h240-k-no

(沿線)

 

18時に着いた南部の街リエンツ(リーエンツ)。

中心を川が流れるこの街もまた、登山とスキーで年中観光客が切れないようでした。

お目当てのユースホステル(*”そこにあるから行く”みたいな状態)は徒歩15分の川沿いにあり、収容人数150名、素泊まり105AS・オーストリアシリング・1500円。

 

通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約12~14.4円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

がっつり食べて(自炊して)やっとゆっくり寝られるぞ、と思いきや!

キッチンは収容人数150名に対し「二口コンロひとつ」「テーブルひとつ」と申し訳程度の設備・・・。

 

(メモより)「(午後)9時 (順番待ちで)まだ飯が食えていない、、、」

イギリス ○○ス○○○か」

恵まれた他国のユースホステルとの差を痛感するバックパッカーでした。

(写真上 リエンツユースホステル 下 宿泊スタンプ)

 つづく

 

 

 

昭和の東西ヨーロッパ行 108 ビザ取得で助っ人あらわる ウィーン オーストリア No.599

3月の市の広報誌に載っていた新生児の名前は「亜都」ちゃん「渚彩」ちゃん。

呼び名は、、、、、「あづ」ちゃん「なぎさ」ちゃんに、名付けサイトでもあるのかと思う、へき地県境民です。

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月14日(月)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在12日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

午前。

ウィーンの街角で出会った富山県の「ママさんコーラス世界大会」帰りの4人との楽しいひと時を終え、急いで残る一つのビザ取得へ向かいました。

 

ホテルからポーランド大使館まで徒歩10分、のはずでしたがえらい目に・・・。

同じ通りでも”1a,1b,1c,1d,1eと続き、大使館がある”42e”に着いたのは12時1分!

無情にも昼休みかと思いきや、日本人がまだ2名並んでいる!

ならやっちゃえ!と12時20分に申請書を提出し、明日9時渡しになったのです。

そこで助っ人が!

2名のうち”ベルリン留学8カ月”の方が”急いでくれ!~’(%”>#!!!”とドイツ語で交渉してくれた結果、なんと!!5分後に発行してもらい、しかもワイロの30AS・オーストリアシリング・430円は「いらない(*窓口)」。

留学生の彼には感謝するばかりでしたが、それにしてもなぜ窓口が動いてくれたのか?

日本人だから??

最後までわからずじまいでした。

 

通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約12~14.4円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPX7lc7WoH_Esptn-0yR-FHOV7PvD0w7STHYbmy=w408-h304-k-no

(ウィーン日本大使館

 

夕方。

マスターが日本人、ウェイトレスが韓国人の”日韓料理店”で酢豚(76AS・オーストリアシリング・900円)を食べれば、野菜と稀少な”ごはん(白米)はおかわり自由で久々に満腹になることができました。

 

他のメニューはこんな(↓↓)感じでした。

・寿司 95AS・オーストリアシリング・1300円

・刺身 135AS・オーストリアシリング・1900円

・すき焼き 105AS・オーストリアシリング・1500円

・焼きそば や うどん類 70AS・オーストリアシリング・1000円

・ビール 20AS・オーストリアシリング・280円

 

現地の日本料理店中国料理店と並び、往来の多い英仏独伊西等の主要大都市やここウィーンのような場所でたまに見かけると喜ぶくらい”まだまだ少ない時代”。

ほとんどパン生活の道中にご飯を食す機会があれば、それはそれはいたくおいしく感じたものでした。

 

繁華街を夕暮れ散歩した後、トラムでウィーン西駅に戻った時はすでに21時半。

東欧の玄関口(*距離が近い)できっと何か独特な雰囲気がある?”という期待は勝手なる思い込みだったのかもしれません。

まだあまり見ぬ大都市(人口は1990年で138万人)になんとなくスッキリしない、今一つの自分。

まあそれでもよしなのは、ポーランドチェコスロバキア訪問後の再訪でじっくり見て回る計画があるからでした。

 

今夜も22時発の夜行列車。

それは何度目かの西行でしたが、鉄道ファンはまったく気にならず・・・。

大聖堂や教会は日本の寺社と同じように各国そこかしこで見かけるので、このころには外観チェックで済ます程度になっていました。

また初期に英国でたくさん訪れた、国営で無料の美術館や博物館のおかげもあるでしょうか。

この国では、二度と周遊できない”最初で最後の訪問”を鉄道周遊パスを使い思う存分楽しむことを最優先したのです(*ウィーン再訪を除く)。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipN8WwNGILLqOx20ykFlD3R4bFKG0qrNtqW9dMfl=w426-h240-k-no

(ウィーンのお寿司屋さん)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMHfRZxzr79vBF8EQa6EzQ6E4YXXwYr1_5TK_yi=w426-h240-k-no

マクドナルド)

 

 つづく

 

春の半島は 天然記念物と無人の校舎 三陸 No.598-A

4月中旬。

夜9時に近くで鹿ちゃんの鳴き声がする季節がきたようです。

 

先日の午後。

冬から通い始めた半島の開業医の窓口で「次回は(混む午前ではない)午後でもいいですよ〜」と言われたのをいいことに、なるべく混まないだろう夕方到着まで少し道草を食って来ました。

 

委託品のヤフオク発送で訪れた半島の郵便局が今までにないほどの混み具合だったのは「今日は年金支給日(2カ月に1回・偶数月の15日)」かとハッ!として・・・。

 

半島全体が震災後に三陸復興国立公園になったようです。

過日、沿岸の災害公営住宅(町営住宅)の入り口の看板が”復興住宅”となっているのを見ましたが、これから全国各地で災害が起きるたび”復興○○○○”という名称のものが増えていくのでしょうか・・・。

 

半島の尾根を通る本道から外れまだ見ぬ側道に入れば、グーグルマップの平坦さとは真逆の急なアップダウンが始まりました。

本道すら”スカイライン”と呼ぶにふさわしい、左右に振られながらのアップダウンが続く道。

それは側道も同じで、本道と側道を結ぶ道はそれにも増してすれ違いにも難儀する”急な登りか下り”なのが半島の道です。

最初に”斜面に入り組んだ狭い道沿いに、高さの違う家々が点在する”さまを見た時は、これがリアス海岸かと感嘆しました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNDesknfF8bI2-wA8Q_MS4bZ4NNR3ZyhYhkxvHI=w408-h306-k-no

(写真はグーグルマップより 砂浜がほぼなくごろごろした岩が続く けわしい海岸 外海・太平洋でも養殖いかだあり 近くは漁船 遠くはフェリーや中・大型船が通る)

 

のんびり行く側道に車の姿ほぼなく、代わりに目の前に突然現れた「カモちゃん!天然記念物カモシカ)1頭」

まだ明るい午後2時半のことでした。

こちらに驚いたカモちゃん。

側道を横断することなく大きな体を反転させ、のっそのっそと来た道(*遊歩道)を戻っていくので急いで車を降りて後を追ったのですが、曲がり角で見失ってしまいました。

音もなく草かげに消え・・・(*ウシ科です)。

 

(2年前に別の場所で出会ったカモちゃん お食事中でした)

 

海岸沿いに進んだ先に小舟が係留されている小さな漁港が何か所かあり、復興予算でできた高さある立派な防潮堤にさえぎられていたりします。

この後、半島の先にある先月閉校した小学校が気になり車を延ばす(足を延ばす)ことに、、、。

 

尾根沿いの高台にある小さな学校を初めて下から見上げればなんとも高い敷地!

ご縁あり何度か訪れてはいましたが、やがて到着した校門正面からゆっくりと敷地を眺めるのはこれが初めてでした。

 

(個人撮影)

 

ちょうど右側に並ぶ桜が見ごろを迎えていましたが、ここはもう人っ子一人いない空間。

この春最後の卒業生が11人だったことをネットニュースで知り、「最後は二桁」いったかという想いです。

 

こちらの学校にはアルバイト(助っ人)カメラマンとして、卒業アルバム用に入学式、運動会、修学旅行(*統合した2校合同)、卒業式の撮影にお邪魔しました。

初めて訪れた際、尾根にある校舎(正面右側)の端から太平洋の青い海原が遠くまで見えていたく感動した記憶がよみがえります。

 

「たくさんの思い出が詰まった」

よく聞かれるフレーズですが、少し関わっただけでも数々のシーンが思い出され、あらためて思い出が詰まった場所なことを実感させられました。

当初から各学年の児童数はほぼ「一桁ずつ」で、近い将来統合することが決まっていましたが、本当に近かった・・・。

 

誰もいない校庭脇に遊ぶ子供のいない遊具たち、、、。

きれいに管理された花壇に色とりどりのチューリップがひっそりと佇(たたず)んでいました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOEIPhob5OC8Phf7EAWF1sc51C0RzLxFFNPzBZ_=w426-h240-k-no

(学校のかたわらにある 1962年開設 個人商店さん兼営?の簡易郵便局 今後もやっていけるのでしょうか?)

 

帰り道。

半島の尾根を通る本道を横断すると反対側もまた、”斜面に入り組んだ狭い道沿いに、高さの違う家々が点在する”景色が続きます。

ほどなくして下まで降りるとそこは内湾です。

 

(個人差はありますが)泳いで行けそうな距離に、5年前(2019年)待望の架橋なった島が見えてきました。

島の中学校は一昨年閉校・小学校もいずれスクールバスで市街地の学校へ・・・。

写真(↓↓)はカキやホタテ養殖が盛んな内湾漁港のうちのひとつです。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNZPP8q6lco-oKwc6qmrJWCCtIho8EWXgxGla6P=w408-h272-k-no

 

人口減少が続く中、湾づたいに漁港のある集落同志を結ぶトンネル工事が行われていましたが、なぜか道の両端は本道にはつながらず尻切れトンボ、、、。

 

ピーク時22000人いた人口も今や5300人の旧町。

人は減っても家は(ほとんど)減らず。

相当数空き家があるものと思われます。

月初めにポスト投函される市の広報誌で”カウントダウン”がいやおうにも目に入ります。

 

午後は港で作業する人も見かけず、歩く人も見当たらず、通る車もかなり少なく、、。こうしてのどかな時が静かに過ぎていきました。

(1か月もたたずにグーグルマップから消えた小学校 名前は消えても校舎や体育館、プールのは地図上に残る)

 

・1949年開校

・1959年、ピーク時の児童数は575人

・直近では52人まで減少

・先月の閉校式には地元住民や児童ら300人が出席、昔の様子が上映される

・在校生全員が感謝の言葉を述べ校舎に別れを告げる

・74年の歴史に幕

昭和の東西ヨーロッパ行 107 ウィーンでにわか添乗員をする オーストリア No.598

昨年度の観光客数で「日本人がタイに行く」のを「タイ人が日本に来る」が上回り逆転したことに、ついにここまで来た(落ちた)かと思うへき地県境民です。

奇しくもテレビで日本の高校生がタイのスラム街を訪問していましたが、そのうち、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月14日(月)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在12日目

(地図と写真と小さな文字はグーグルマップより)

 

インスブルックからの夜行列車で早朝ウィーン西駅に着けば、何日かぶりの朝日が快晴の一日を暗示し(*そんな気がした)心は軽く・・・。

 

本日、やっと”東欧のビザ(滞在ビザ)”を申請する機会に恵まれ、8時20分、駅からそう遠くないチェコスロバキア大使館(*現チェコスロバキアに着けば”人の山”。

めげずに申請用紙に記入後、受付に提出し番号札をもらい、後で表示盤に番号が出れば窓口でもらえる仕組みです。

お代は”後払い”ですが、パスポートを人質に取られているのでほぼ100%回収できます。

待つ間、近くのシェーンブルン宮殿まで足を延ばしてみました。

 

シェーンブルン宮殿 ↑↑・↓↓ と 行き止まりのウィーン西駅 ↑↑

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM59GqGmeLV81jk6jDiywdoI0kAeTfRBW7lXBgE=w408-h306-k-no

シェーンブルン宮殿

18 世紀に建てられた夏の離宮。豪華なロココ様式の儀式用の広間、迷路がある庭園をツアーで見学できる。

 

広い敷地をちょい見して戻れば、無事10時前パスポートを返してもらえました。

かかった費用は350AS・オーストリアシリング・4200円(日本で取れば4600円)。

ビザは国により取得費用にかなり幅があり、60~600AS(720円~7200円)まで。

 

1か国の費用なので、数日かそれ以下の滞在で高い所は必然的に考えてしまいます。

そのことが、後日滞在ビザではない割安の「通過ビザ」を取ることになった国が出て、、、。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNrcGbChZZEEu4KwFAY_zVl4DypU8x-5HyRUQOS=w408-h306-k-no

(公園入口)

 

続いてポーランド大使館に行こうと歩いていると、向こうから4人の日本人らしき方々が歩いてきました(★見た目と雰囲気でだいたいわかります)。

道にでも迷ったのか、キョロキョロあちこちを見ています。

あいさつをして聞いてみると富山県の方々で、交流のあるハンガリーの首都ブダペストで「ママさんコーラス(合唱)世界大会」に参加して帰国前に立ち寄ったとのこと(*1週間の旅)。

 

7か月間髪をぼさぼさに伸ばした青年(*に見えたのだそう)は、街を見たいという彼らの希望に思わず案内役を引き受けてしまいました。

旅行ガイドは専門学校時代に圏央の3大旅行代理店の一支店で、地元の社員旅行(*奇しくも県央まで1泊2日のバス旅)のアルバイト添乗員をして以来、2度目のこと。

 

11時40分ホテル集合なので、急いで有名作曲家が眠る墓を見た後トラム(市電)で街の中心まで出て、両替をし、おしゃれな喫茶店でコーヒーを飲んで無事ホテルに戻りました。

(メモより)「ホテルまでベンツのタクシーにも乗れたしよかったよかった」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM0HW-AmbCxYNrsSmabkbDajz2m_YGrzWRslP_Y=w408-h252-k-no

(中央墓地)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOPxaS0_GqTcNrXGDCqt8Y9sxjxfNhH-0dMcJA=w408-h270-k-no

(トラム・市電 これまた赤白のオーストリア色)

 

茶店ではコーヒー他をドイツ語で注文して驚かれましたが、入国の際現地の方に「あいさつやら数字やら簡単な文章を英語で書いた1枚の紙を見せ」、この国の言葉ではなんと言うか?教えてもらっていたのです。

 

彼らは「合い間の街歩き」をとても喜んでくれて、日本人のフロント係がいる高級ホテルで「後は帰国するだけだから」と”薬やカップみそ汁・いかくん”を、指揮者の先生はTシャツ(しゃれた音楽関係の)をくれたのです。

午後の市内観光が終われば明日帰国する彼らにとっては、”短時間の自由時間でよくわからない街”ウィーン

 

(メモより)「お役に立ててなにより」

そこでのご縁に感謝したバックパッカーでした。

 

そのご縁は帰国後写真を送ってくれた一人の方と年賀状のやり取りという形で続き、2018年、32年ぶりの再会(↓↓下記ブログ)を果たすことに・・・。

 

koppasan.hatenablog.com

(ウィーンの街角で 38年経過しボロボロになった写真)

再会した方は撮影者で、写っている3人は他界、自分もそのうち他界?・・・です。

 

 つづく