近くにある大理石海岸の完成した防潮堤を見て、自分がいた小学校の学区の境にあった刑務所の高い塀を思い浮かべてしまう、へき地県境民です。
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
7月1日(火)
フランスから越境しスイス滞在12日目。
(地図と写真小文字の文はグーグルマップより)
この日はチューリッヒ近郊、湖に面した町ツーク(地図↓↓・中央下)からいよいよスイス一の都会チューリッヒへ。
microsoft Copilot より
1986年7月には以下のような出来事がありました:
また、この月には以下のような流行や話題もありました:
(便せんメモより)「4か月目の旅で5本目のボールペンは亀裂が入ったのちに折れてしまい”芯のみ”で書いている」
7月に入りだいぶ暑さを感じながらも温度は25から30度、湿度35から50%のしのぎやすさが”重い荷物をしょったバックパッカー”に味方してくれます。
9時36分、ツークを出た列車は次の湖”チューリッヒ湖”を目指し進みます。
ものの15分で見えた次の湖は今までと違い”湖岸に家並み”がたくさんありました。
それは大きな街が近づいてきた予感・・・・・。
しばらく進むとやがて家並みがますます増え、チューリッヒ市内に入り”チューリッヒ○○○○○○”という駅が3つ続いたあと、行き止り駅/終点”チューリッヒ中央駅”に着いたのは10時14分のことでした。
(行き止まりのチューリッヒ中央駅)
駅に荷物を預け(2スイスフラン・200円)、身軽になったところで”日本人向け旅の連絡所”的な施設まで歩くこと50分(*はたして何の情報を得たのか・・・)。
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)
用事を済ませたあと湖を目指し”適当に”足を進めたら、得意の方向オンチを発揮し90度、時に反対方向を進むこと1時間半。
40分のロスタイムでやっと湖面が見えてきた!
(メモより)「湖はこれまた人・人・人とたくさんの種類の観光船」
(2019年6月のチューリッヒの記事が下二つです)
スイス一の約44万と都市圏で200万の人口がある、広くて多きな街の中心部のあちこちを”車両を連結したトラム(市電)”が芋虫のようにゆっくりくねくね動き回っていました。
(チューリッヒ)
チューリッヒは銀行・金融の世界的な中心地で、スイス北部にあるチューリッヒ湖の北端に位置しています。中央部にあるアルトシュタット(旧市街)はリマト川(写真↑↑)の両側に広がり、その美しい小道には中世以前にさかのぼる歴史が反映されていて、リマト通りをはじめとする川沿いの遊歩道は、17 世紀に建てられた市庁舎まで続いています(写真↑↑)。
(メモより)「道は長い長い! 歩いているだけであっという間の16時かな」
ユースホステルは”いも虫トラム”と架線から電気を摂る”トロリーバス(*今はない)”を中心部から乗り継ぐこと約3㎞。
「今日もスイスフランの価値が上がり、1米ドル・1.83フランから1.74フランで手持ちはぎりぎり 残り約5000円」
この価値は38年たった今も変わらず、大きく変わった(下がった)のは我らが日本円・・。
入国後、たくさんの自然あふれる景色を見てきました。
一筆書きであちこち見逃しはありましたが、”もうこのあたりでちょうどいい”物価高国でした。
また、観光地のスイス国民はだいぶ観光客慣れしている感じで、”民度”もだいぶ高そうでした。
今後の日本がインバウンドで稼ぐために目指すべき道・お手本なのかもしれません。
ユースホステルは15フラン・1500円で朝食とシーツ込でした。
ただし、”台所使用料(いるだけで)・10分1フラン・100円”にあわわ!しつつ明日も移動日。
圏央にいる同郷の親友に手紙をしたためながらふと頭に浮かんだ、
「この手紙が着くころ、日本は梅雨明けか?」
梅雨のないこちらは旅にも有利でしたが、はたして作物は大丈夫なのだろうか?
「この国に来て毎日”雨なし” こりゃまた不気味だ」
(今もユースホステルのあるチューリッヒ湖岸 中心部から3㎞離れた住宅地)
ユースホステルは今も営業中。
調べてみると、当時1500円が現在一人だと6ベットのドミトリー(大部屋)で8211円(素泊り)、4ベットのドミトリーで9238円、シングル17106円とは・・・(*変動します)。
この差に”何も言えねえ~”というのはまさにこのことかもしれません。
つづく