月初めにポスト投函される各種広報誌。
県政だよりの特集は「プラスチックは資源」、一方今いる市の広報は「プラスチックは燃やせるゴミ」に、わかっていてもなんだかな~のへき地県境民です。
「燃える、燃えない、資源」は自治体次第、、、
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
7月16日(水)
フランス⇒スイスから小国リヒテンシュタインを抜けオーストリア滞在14日目。
(地図と写真と小さな文字はグーグルマップより)
イタリア経由がダメで(*周遊パスが使えない)で大回りした因縁の地、南部の街リーエンツ(地図↑↑・中央下・フィラハ左あたり)。
日本の(お堅い)公営ユースホステルのように、午後10時消灯・午前7時半~8時朝食(*台所を使える・ホットチョコレートのみ買える時間/なんじゃそりゃ〜!?)の宿に名残惜しさはまったくないけれど、駅から見える見事な岩山にスイスを思い出すバックパッカー。
9時。
そのすがすがしい景色をお土産に出発しました。
(南部リーエンツの街中 なんとなく陽気なイタリアの雰囲気?)
本日は昼間南部フィラハとクラーゲンフルト(地図↑↑・中央下)あたりをうろうろし、夜までに第二の都市グラーツ(地図↑↑・右下)へ。
16日間有効の「オーストリアチケット(*周遊パス)」も残すところあと4日。
16日もある割に乗り残しが多いのには理由がありました。
・国土面積が北海道ほどでも、ローカル線の少ない本数で接続(乗り継ぎ)に難がある
・夜行列車に乗ると、降りた日の出発地点がほぼ決まってしまう
・周遊パスで一部ドイツ内を通過できてもイタリア内は通過できない(*線路は1本)
国鉄時代の北海道/九州ワイド周遊券のようにスムーズにはいきませんでした。
(沿線の集落)
南部ローカル線沿いにも湖が数あり、湖上に帆を張ったヨットやボートが見えました。
そして、岸辺には人・人・人・・・。
(便せんメモより)「あれはまさしくオーストリアの湘南だ」
(沿線)
そんな中、ユーゴスラビア/現スロベニア国境近くを走る2両のディーゼルカーは圧巻でした。
長さわずか14m(*JR在来線は20m)、最高速度90㎞/h、1965年製のレトロな車両が道路が(見え)ない木々ばかりの山の中をひた走り・・・。
(メモより)「いくつかの川をまたぎ、時折小さい駅に着く、えらいへき地線」
それでもそれなり人は乗っているのが不思議でした。
(ユーゴスラビア/現スロベニア国境近くの町 ローゼンバッハ 検問所)
なんとこの国境線、日曜日は全便バスになるというから驚きです。
理由は、、、想像もつきません。
このあと針路を東にとればしばらく平地を走り、沿線の畑に見えるは麦ととうきびばかり。
いままでの国で見かけた牛や馬や羊などは皆無でした。
途中の国境駅でついにユーゴスラビア/現スロベニアのディーゼルカーを発見!
クリーム色の車体に赤線の2両はやはりかなり古いもので、”東西格差”がここにもありました。
(沿線)
夕刻。
国境近くから東北に針路を変えれば、通勤客は乗り、いつの間にか降り、元のガラガラな車内・・・。
やがて南部に続いた平地から景色は一変しました。
列車は山の谷を登り、それに伴い自然と駅間は長くなっていきました。
このような険しい場所は、並行する後で作られたであろう道路の方が真っすぐで快適(*有利)そうに見えましたが、極端に車が少ない・・・(人が住んでいない)。
(メモより)「ド田舎とはこのことか」
このあたりは「山間部の小さな村に滞在してみたい」と思わせるには充分な大自然でした。
7月中旬、このところ日暮れもだいぶ早くなってきました。
「大自然の中の傾きかけた夕日にオーストリアの落ち着きを見た」
夕闇の中、第二の都市グラーツ(地図↑↑・右下)に着くころにはすでに22時。
今夜は夜行列車で初めてウィーン南駅へ向かいます。
(現在のグラーツ中央駅)
## 気づき ##
・今まで乗った車両は全て”客車”で、電車でもモーターのついた車両が一つもない
のは”列車の前後か中ほどに客の乗らない電動制御車があるため”
そのため床下スッキリ・車内は静か(*ディーゼル カーを除く)
どうりでモーターがうなる音が聞こえなかったわけです。
つづく