三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

昭和の東西ヨーロッパ行 107 ウィーンでにわか添乗員をする オーストリア No.598

昨年度の観光客数で「日本人がタイに行く」のを「タイ人が日本に来る」が上回り逆転したことに、ついにここまで来た(落ちた)かと思うへき地県境民です。

奇しくもテレビで日本の高校生がタイのスラム街を訪問していましたが、そのうち、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月14日(月)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在12日目

(地図と写真と小さな文字はグーグルマップより)

 

インスブルックからの夜行列車で早朝ウィーン西駅に着けば、何日かぶりの朝日が快晴の一日を暗示し(*そんな気がした)心は軽く・・・。

 

本日、やっと”東欧のビザ(滞在ビザ)”を申請する機会に恵まれ、8時20分、駅からそう遠くないチェコスロバキア大使館(*現チェコスロバキアに着けば”人の山”。

めげずに申請用紙に記入後、受付に提出し番号札をもらい、後で表示盤に番号が出れば窓口でもらえる仕組みです。

お代は”後払い”ですが、パスポートを人質に取られているのでほぼ100%回収できます。

待つ間、近くのシェーンブルン宮殿まで足を延ばしてみました。

 

シェーンブルン宮殿 ↑↑・↓↓ と 行き止まりのウィーン西駅 ↑↑

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM59GqGmeLV81jk6jDiywdoI0kAeTfRBW7lXBgE=w408-h306-k-no

シェーンブルン宮殿

18 世紀に建てられた夏の離宮。豪華なロココ様式の儀式用の広間、迷路がある庭園をツアーで見学できる。

 

広い敷地をちょい見して戻れば、無事10時前パスポートを返してもらえました。

かかった費用は350AS・オーストリアシリング・4200円(日本で取れば4600円)。

ビザは国により取得費用にかなり幅があり、60~600AS(720円~7200円)まで。

 

1か国の費用なので、数日かそれ以下の滞在で高い所は必然的に考えてしまいます。

そのことが、後日滞在ビザではない割安の「通過ビザ」を取ることになった国が出て、、、。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNrcGbChZZEEu4KwFAY_zVl4DypU8x-5HyRUQOS=w408-h306-k-no

(公園入口)

 

続いてポーランド大使館に行こうと歩いていると、向こうから4人の日本人らしき方々が歩いてきました(★見た目と雰囲気でだいたいわかります)。

道にでも迷ったのか、キョロキョロあちこちを見ています。

あいさつをして聞いてみると富山県の方々で、交流のあるハンガリーの首都ブダペストで「ママさんコーラス(合唱)世界大会」に参加して帰国前に立ち寄ったとのこと(*1週間の旅)。

 

7か月間髪をぼさぼさに伸ばした青年(*に見えたのだそう)は、街を見たいという彼らの希望に思わず案内役を引き受けてしまいました。

旅行ガイドは専門学校時代に圏央の3大旅行代理店の一支店で、地元の社員旅行(*奇しくも県央まで1泊2日のバス旅)のアルバイト添乗員をして以来、2度目のこと。

 

11時40分ホテル集合なので、急いで有名作曲家が眠る墓を見た後トラム(市電)で街の中心まで出て、両替をし、おしゃれな喫茶店でコーヒーを飲んで無事ホテルに戻りました。

(メモより)「ホテルまでベンツのタクシーにも乗れたしよかったよかった」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM0HW-AmbCxYNrsSmabkbDajz2m_YGrzWRslP_Y=w408-h252-k-no

(中央墓地)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOPxaS0_GqTcNrXGDCqt8Y9sxjxfNhH-0dMcJA=w408-h270-k-no

(トラム・市電 これまた赤白のオーストリア色)

 

茶店ではコーヒー他をドイツ語で注文して驚かれましたが、入国の際現地の方に「あいさつやら数字やら簡単な文章を英語で書いた1枚の紙を見せ」、この国の言葉ではなんと言うか?教えてもらっていたのです。

 

彼らは「合い間の街歩き」をとても喜んでくれて、日本人のフロント係がいる高級ホテルで「後は帰国するだけだから」と”薬やカップみそ汁・いかくん”を、指揮者の先生はTシャツ(しゃれた音楽関係の)をくれたのです。

午後の市内観光が終われば明日帰国する彼らにとっては、”短時間の自由時間でよくわからない街”ウィーン

 

(メモより)「お役に立ててなにより」

そこでのご縁に感謝したバックパッカーでした。

 

そのご縁は帰国後写真を送ってくれた一人の方と年賀状のやり取りという形で続き、2018年、32年ぶりの再会(↓↓下記ブログ)を果たすことに・・・。

 

koppasan.hatenablog.com

(ウィーンの街角で 38年経過しボロボロになった写真)

再会した方は撮影者で、写っている3人は他界、自分もそのうち他界?・・・です。

 

 つづく