(岩手県陸前高田市 復興なった 名勝・高田/たかたの松原 長い海岸と防潮堤)
ゆうパック持込すれば、"出品名(例えば”小皿やお盆”)ではダメ"と2重線を引かれ、記載する「郵便局の分類名(例えば"漆器")」確定に局員が戸惑うこと計15分に双方がたいへんな時代と思う、へき地県境民です。
(飛行機搭載で)”危険物は入っていませんか?”と言われましたが、なわけがない。
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
7月8日(火)
フランス⇒スイスから小国リヒテンシュタインを抜けて山国オーストリア滞在6日目。
(地図と写真はグーグルマップより)
7時半。
4日前と同じく夜行列車でウィーン西駅に着いた朝は今日も気温上がらぬ曇り空。
(便せんメモより)「”またやってしまった”」のは、当時旅行者のバイブル的存在「地球の歩き方(本)」を見て宿(大学の寮等)を探そうとしたことでした。
この街はオーストリア国鉄の駅が4つに点在していてそれらを結んでいる交通機関は複数あるのですが、まともな案内図がなく複雑でよくわかりませんでした。
・Uバーン(地下鉄)
・シュタットバーン(専用軌道を走るトラム/市電)
・シュトラッセバーン(トラム/市電*シュトラッセは”通り”)
中心街に行こうとトラムに乗れば満員で動けず・・(*結果、タダ乗り1回)。
中心街にあった”i"(インフォメーション・案内所)で”おおまかな主要路線図(詳細ではない)”をもらえばもう9時半でした。
第一目的、”東欧諸国のビザ取得”は大使館により受付が11時か12時までなことがわかり、今から場所を探しても間に合いそうもありません。
ならば、またまた”周遊パスを持つ鉄道ファン”の血が騒ぎ・・・。
今回はウィーン近郊のローカル線の旅としゃれこみました。
(約40㎞離れたブラスチラバはチェコスロバキア第二の都市・現スロバキアの首都)
11時。
ウィーン南駅から気になる東方、チェコスロバキア方面へ進んだあとは東欧からの列車(*機関車が客車をけん引する)で戻るはずが、、、”来ない”ので別の電車で戻ったり・・。
(ウィーン近郊)
国境まじかのローカル線で見た”ディーゼルカー1両・ブドウ色”のドイツ語ではない見慣れぬ文字に時刻表では国境超えはないはずと思い・・(どこの国の車両だったのか?)。
(ウィーン近郊の町 ノイジードル・アム・ゼー)
あたり広い土地にブドウと麦畑が目立ち、山国では数少ない平地を思わせました。
(便せんメモより)「このあたりまで来るとドイツ語なんだか、村中で会った方々に"あいさつ"されても皆言うことが違う・・」
それは、いわゆる”方言”だったのかもしれません。
(ウィーン近郊の町 パムハーゲン)
ディーゼルカーが1両か2両ばかりのローカル線。
中には半分荷物車で全長が18m(*通常は20~25m)のかわいい車両がついていたり・・。
(メモより)「やたら長い駅名にも慣れてきた」
「ついでに列車の遅れにも慣れてきた」
(ウィーン近郊の町 アスペルン)
ほとんど車のいない高速道路を見ながらウィーンに近づくと、10㎞手前で団地群発見!
大都会ウィーン南駅の一歩手前で降りウィーン西駅へ歩いてみました。
(当時はなかった 現在のウィーン中央駅)
時折落ちてくる雨の中、”ぐちゃぐちゃのトラム線路”と”ボロボロ黒色のシュタットバーン(専用軌道を走るトラム・市電)を見ながら歩くこと40分。
午後8時のウィーン西駅前で幸運にも開いていたのは”ホットドック屋さん”。
18AS・オーストリアシリング・215円の味はパンも具材も本場だけあって美味でした。
(現在のウィーン西駅)
近くにマクドナルドも営業していて、
・コーヒー11AS・オーストリアシリング・132円
通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約14.4円
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)
お腹を満たして駅入りすれば、思った通り
「バックパッカー姿・てんこ盛り」は”夏のシーズン到来/夏祭り”を実感するには充分でした。
ローカル線で探した田舎のユースホステルは"見つけられず"、今夜も夜行(列車)に・・。
今回ウィーン市内をあまり見る気が起きないわけは、こののち東欧(ポーランド・チェコスロバキア)を巡り戻ってくる予定からでした(*後回しできる)。
## 東西ヨーロッパの”格差”を早くも知る ##
・ウィーン西駅で見慣れぬ”超おんボロの列車”の正体は、ワルシャワ(ポーランド)⇔ウィーンの”急行ショパン”でした
⇒国内で使わぬ古い(40年くらい?)車両を東欧で使うオーストリア
それはなぜなのか?
・他線で見かけた東欧からの列車は、たくさんの東欧の人々が窓から顔を出している、なんと!!あの”オリエント急行”でこれまたボロボロでした。
⇒西部オーストリアで見かけたピカピカのオリエント急行はおそらくウィーンまでの運行
それはなぜなのか??
この時はまだ、この後東西ヨーロッパの違い(格差)をいやというほど思い知らされることなどつゆ知らず、、、。
つづく