三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

昭和の東西ヨーロッパ行 106 周遊パスで南へ西へ 控えめがいいのか? オーストリア No.597

(X.旧ツイッターより)

End Wokenssさん投稿による「米国・サンフランシスコの閉店マップ」を見て、もし今後海外旅行の機会があっても未訪問国アメリカは遠慮する?かもしれない、へき地県境民です。

連日メジャーリーグの華やかな試合が映る国ですが、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月13日(日)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在11日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

山国の山の中、ブルック・アン・デア・ムーア(地図↑↑・右・グラーツの”グ”の左)という小さな町のユースホステルで迎えた静かな朝。

 

昨夜、管理人のおばさんの友人数人が来て、そのうちの一人がアコーディオンオーストリアの曲を演奏したりして楽しい時間を過ごすことができました。

また、朝食でおいしいパンにゆで卵と自家製ラズベリージャムが食べられたのも二重丸でした。

 

9時57分。

名残惜しくも隣国ローマ(テルミニ駅)行に乗ったのは、国境近くのローカル線起点駅フィラハ(地図↑↑・中央下)を訪れるためでした。

(便せんメモより)「この線も自然がいっぱい、途中原生林かと思うばかりの”人間の作り出したものが何もない”景色が山に沿って続く」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOmQZgGg5auqM5qllyyiatxANVOfFWOC3-mbh9E=w408-h544-k-no

(沿線)

 

山岳路線ゆえのスローさで2時間40分かかったお昼過ぎ、国境近くの街フィラハに着きました。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMJxnVxEL_EjvWjDNZjil1ReFVpFttQho3-CaSa=w408-h306-k-no

(南部・国境近くの街 フィラハ)

 

駅に停まっていたのは、ディーゼル機関車とけん引する3両の客車。

本日は(も?)周遊パスで気軽に南へ西へ・・・。

 

目的のローカル線がここから国境に沿って一直線に西へ伸びている(地図)のは、乗ってみてそのわけがよくわかりました。

(メモより)「ガラガラの列車は両側を山に挟まれた比較的広い平地をゆっくり進む 左の山々を越えればイタリア」

 

日曜の沿線にはおなじみの”組み合わせ”湖にキャンプ場”、そしてそこに集う人人と車たち。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNe-vWJhxw7TvNWbeH4GPv1uTg9WTQj3eTtecfp=w426-h240-k-no

(沿線の湖)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOnXZqd9RDzeixd22eO_0d9LmGwhbWFrnn-AvCM=w408-h291-k-no

(ローカル線 沿線)

2時間かかった終点は行き止り駅で、一山超えた10㎞先の駅まで、終バスは13時台で現在は14時台・・・戻るしかありませんでした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPclGViQ4yuMUbxpa2PcLvS51DCf4lsQ7thJY0s=w408-h306-k-no

ローカル線 終点 ケチャハ  ↑↑・↓↓

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOZiH7jpLKaYEFItYGUbA0RTN3rbbSLL0K0jwVz=w532-h240-k-no

(ゴンドラ/リフトも複数あり ウィンターリゾート地はいい眺めです)

 

(メモより)「車掌が何か文句を言って行った」ようでしたが、周遊パスとんぼ返りでももちろん有効です(*以前ダメと言われたイタリアに越境もしていません)。

 

折り返しの列車はさすが日曜日、2時間の間に少しずつ乗客を乗せていき、やがて4分の3ほどまで座席が埋まりました。

 

17時。

再び国境近くの街フィラハから乗ったドイツ行急行。

同じ所要時間2時間でも移動距離が先ほどの60キロに対し今度は200キロ以上・・。

 

(メモより)「この区間もすごかった 山の中腹を列車は進み、はるか眼下に家々を望む 遠くに続く山並みと道路」

大自然の中に時折ポツンとある駅は誰が利用するのか・・」

 

なんと!、トンネル手前の駅から車は列車に乗る(*道がない)のです。

他の路線も料金所”があるので同じようでした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM79b5wcRHYZkxGVB_HnBXExFcIOGfewcIK6c1E=w408-h496-k-no

(春、雪解け水が勢いよく流れそうな沿線)

 

トンネルを抜ければ下り坂。

時折見える家々の窓辺には色とりどりの花が並び、優雅に感じるバックパッカーでしたが、後で”花を飾ることが決められている”とも聞きました。

建物も自然も地味な印象のオーストリアでしたが、その”控えめ”を”落ち着き”ととらえ好感したのは事実です。

 

雪の季節はどんな感じなのか・・・。

意外と少ない”無人”に”ソリ”が立てかけられていました。

 

20時。

乗り換えて降りた駅が2度目なら、”土地勘”を利用してマクドナルドへ直行することは可能でした。

フライドポテト(M) 13AS・オーストリアシリング・180円 はウィーンで14.1AS・205円で、初めて”地域差”があることを知りました(*差は日本でも)。

 

通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約14.4円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

夜行列車と言えばインスブルック(というほど乗り降りする)になってしまい、今夜も向かえば、来た列車はなんと!名前だけ2等車の”もと1等車!!

開放型(*日本にある)はリクライニング付で座席配置は横にイスが3つ(3列)。

やけにゆったりしていると思えばその差は、

オーストリア レール幅1435㎜ 3列 定員:禁煙36名・喫煙24名 

・日本         1067㎜ 4列(*新幹線を除く)

 

当時、「東海道線横須賀線グリーン車はリクライニングなし(*1986年のことです)」だったことを思い出しました。

(メモより)「まさに大名気分 (1等車まで乗れる)ユーレイルパスを持たない分しっかり乗っておかないと」

そのユーレイルパスは米国で買えば日本より安く、当時切符のたぐいは日本が円高の割に割高だったようです。

 

 ## ない・ある・なんだ? ##

 

・どの駅にも街角にも”灰皿”がない! 女性もポイ!ポイ!

・どの駅(大中規模)のトイレにもある!

 男女が抱き合っている写真のスキン(コンドーム)販売機

 説明書付1~4個入り20~30でAS・オーストリアシリング・290~430円

・ウィーン7時発のコンパートメント(6人掛け)ではカーテンを閉めて寝る輩(やから)が多く、親切な元ホテルマンはモーニングコールをドンドン!(*トントンではない)・・・一日一善〜

 

 つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

昭和の東西ヨーロッパ行 105 山国の山岳急行 6時間越えに オーストリア No.596

(X.旧ツイッター Kyle Bassさんより)

ニューヨークのホテルで朝食を摂れば、ついに100ドル!(14500円、チップ込の一例)到達に驚く、へき地県境民です。

さすがに本人「二度と利用しない」 ですが、もしこの方が日本に来たら、、、

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月12日(土)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在10日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

昨夜東部の首都ウィーンから乗った夜行列車で6時半に着いた西部インスブルック

以前利用し”勝手がわかる”バッタ屋さん(*格安スーパー)で食料を仕入れ、初めての”長距離列車”で東部の都市グラーツ(地図↑↑・右下)方面へ。

 

9時42発の山岳急行週末にバカンスシーズンが重なり混み方半端なく・・。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMIaqpdPmzRtuksB1t1wczwZ-4sp6XH-5Pjd-Y=w408-h272-k-no

(沿線の町)

 

列車は山国の山岳地帯を一時間に60㎞くらいのスピードでゆっくり進んでいきます。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOzafD1CxJUxfZHEqS-nUWm4frszIAPjov3hqAk=w408-h544-k-no

(沿線の山岳地帯)

 

眠る気がなくても、その単調なスピードと車窓にやがて睡魔がやってきて・・。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPaCg4LPMYzyaaJR80MBCLwRXfLSQhILo06soay=w408-h306-k-no

(沿線の小さな村 家々はスイスに比べて地味な色合いも落ち着いた感じ)

 

目が覚めては寝落ちして、を何度か繰り返しつつも目的地はまだまだ先に、(メモより)「覚悟してても長いものは長く、遠いものは遠い」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipP6byH56HjDylIYE5ghunwVnKXbn4om_BTWJmZ3=w408-h259-k-no

(沿線ののどかな景色)

 

やっと暗い雲から日が差してきた頃の16時。

6時間を超える長旅がやっと終わりました。

 

ブルック・アン・デア・ムーア(地図↑↑・右・グラーツの左あたり)ウィーン南西123㎞・標高450mの町で、来た目的はそこにユースホステルがあるから

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMYcIMUe6_buliS9ArWmI1zOYb903VeYaa65gpL=w426-h240-k-no

(ウィーン南西123㎞の町 ブルック・アン・デア・ムーア)

 

幸運にも町の地図にユースホステルを見つけ歩くこと25分、無事泊まることができました。

(一番下/ブルック・アン・デア・ムーア ユースホステル宿泊スタンプ)

その日のメンバー(宿泊者)は英国人学生5人、カナダ人1人、アジア人1人の計7人。

大型のユースホステルと違いこじんまりとしたところでした。

 

ところがところが、

(メモより)「通常あいさつを交わす習慣のある彼らはなぜか口を開かず」

なんで~???(差別かな?)のアジア人。

 

「加えて(彼らは)2口しかない電気コンロを2時間占有

このことを個人主義と呼ぶのか、はてまた利己主義と呼ぶのか・・・。

言わなければわからない・気がつかない”はあたりまえで、日本人でもない人たちに日本人のような気配りを期待するほうが間違いでした。

 

こんな時は黙っていないでいつ終わるのか?聞くに限る/自分も使う/待っていると主張すると思うのは今(経験を積んだ中高年)だからかもしれません。

加えて、再確認や時に催促も・・。

 

それでもこのあたりは”ど山の中”。

自然がいっぱい、は言うまでもありません。

時間があればのんびり滞在するにはとてもいい所のように思える、アジア人バックパッカーでした。

 

### 気づき ###

                      |窓口|

オーストリア人の駅窓口での並び方は  ③ ① ②  ←横から割り込んでも平気

                                                                            ④

・列車の遅れはオーストリア人の性格か? 99%は遅れるがのん気?で遅れを取り戻す気がない

 なので、乗り継ぎに注意

・女性はいまだに”ジーンズスカートに上着”が多く時代遅れ?

・休耕地が多い このことが大きい野菜に関連ある?

個人主義? 人が少なくても”避けない” 重量物(リュック)を背負うこちらばかり  

 が避けるので、試しにそのまま歩いたらリュックにモロに当たる人がいた

 ベンチに座って足を伸ばしていたら避けずにまたいで行った・・

 二人で並んで歩けば対面から人が来ても避けないで対面の人が避ける

カートレインが多い 小型車からトレーラーまで運んでしまう(*日本は過去失敗)

   

   つづく                   

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipN32ToAyPdQP54s8JWG0JVzqaCGzjtr0wPrL9YV=w408-h544-k-no

(沿線)

昭和の東西ヨーロッパ行 104 山国の山の中 私鉄は元気 オーストリア No.595

スーパーの野菜売場で「1つの値札(売場)」で2種類あった小松菜を買いセルフレジでスキャンしたら「重さが違います!」という反応(★音声)に、やって来た係員のお姉さまに説明するはめになったへき地県境民です。

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月11日(金)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在9日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

7月中旬、ヨーロッパはバカンスシーズン

そこで夏が来たと思い込んだのは間違いだったのか、かろうじて保っていた曇り空から無情にもシャワーをくらう”肌寒い”朝。

それなのに、休養明け(*連泊)の元気な体でユースホステルからザルツブルク駅(地図↑↑・中央)までバス代惜しさに35分歩いてしまいました。

 

9時25分。

南東のグラーツ(地図↑↑・右下)行急行に乗るも、機関車が客車をけん引することが多いヨーロッパにあって珍しい電車でした(*日本の、特に都市部ではごく普通のことですが)。

車窓に流れる雄大な自然を横目に本日の計画を練り、2時間後に降りたところ(地図↑↑・オーストリアの”ト”のあたり)写真↓↓の山のまた山。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPkFY0nzpjEm94IkcAzE1rWlZieXgI6-VJLFW_m=w408-h306-k-no

(シュタイナッハ イルドニング)

 

便せんメモでは「ここから乗った山岳線はすごかった」

電気機関車が荷物車半分の2等車2両を引っ張り、左右にくねくねさせながら山を登って行く」

「左右に湖とそそり立つ山山」

「まわりは全て自然のみで、湖畔も静かで”けばけばしさ”はまったくない」

そこは”観光一色・(今で言う)インバウンドのお客さんいらっしゃい”とは無縁の世界でした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPOaYbK48QsXtOSUL8eF_DYKy6e5gcXYAGiH4At=w426-h240-k-no

(ローカル線 沿線)

 

ローカル線はここが一番か?と思いながらも””がある鉄道旅。

北へ幹線を乗り換えることさらに2時間以上で”2本の変わったローカル線”の起点駅へ(写真↓↓)到着した時はすでに15時でした。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMH3-Fr305nL3yHBs3VlA1q31yemI4S71BnxF0T=w426-h240-k-no

(2本の変わったローカル線の起点駅 ラムバッハ ここもホームは低い)

 

・ひとつは1日4本、丸い(*古い)2両のディーゼルカー

・もうひとつは線路幅1045㎜(*日本は1067㎜)のトラム(チンチン電車

 

16時。

時間の都合で南方面行きのトラムに乗れば”大当たり!”。

(メモより)「メーターは最高80㎞/h」(*低い!)「けど加速はいい」

「くねくねの道は1両で走るためか」

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPtqHqHXf7uOdqIBsaGk79OwVF_lw33htkbskgu=w408-h544-k-no

(沿線にある小さなチャペル)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMJKc_fFP1d-zwSoUVp1nqGnhnY2XUwHrBC6AZl=w408-h306-k-no

(沿線の無人駅 野菜の無人販売所みたい)

なにせ”鹿ちゃんマーク”の標識通りシカは線路に現れるは、野ウサギは飛び跳ねるは、信号機のついた踏切は1か所だけで、その他の場所で”ファンファン~プープー!言う(*警笛)のが楽しい~。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNoK5If-v2Ky0ABCZfGhkg07JSWuTTiv9J7ZI0=w408-h272-k-no

(沿線の無人駅と1両のレトロな電車)

 

20分ほどで終点フォルヒドルフ到着も、さらにこの先狭軌(1067㎜)の私鉄が・・・。

残念ながら時間が許さず、南西に延びる線路をみておしまいでした。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipOpQw75mev4MwjuwlxgMFQ-k0VLCHeL37TtJs1k=w408-h544-k-no

(終点 フォルヒドルフ 現在のトラム オーストリアの車両は国旗と同じ赤白色が多い)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipO8qt3K22QgwC1uZ0QJxGeZHi2c2OsZwcj8jf8=w408-h270-k-no

(乗れなかった 狭軌の私鉄 紅白はオーストリア色)

 

今回足跡をたどっていく中で驚くのは、本日の二つに限らず、かなりのローカル線が現在も残っている(*営業中)ことでした。

これはお隣スイスにも同じことが言えます。

日本が国鉄時代にローカル線を”清算廃線”、JRになった後も”清算”、そして今後人口と利用者減少で”清算”の暗いニュースが加速しそうな状況とは偉い違いです。

 

車社会の現在でもたくさんの路線が残っていることから、国策として道路と同等に鉄路を守っているのかもしれません。

 

1時間ほどの滞在中、雨にも負けずちょっとだけ車庫をのぞいてみましたが、現地の人は何も言いません。

(メモより)「なんと!戦前からの車両がいろいろある!!」

・(一例)32人乗り(*少ない!)長さ11m(*通常の半分)の1両の電車

・40人乗り(少ない!)長さ12m 1925年(61年前・昭和元年)の1両の電車

・市電型 長さ17m

・客車(*電車に連結する)長さ14.5m

・廃車になった 長さ10.5mの1両の電車

それでいていずれも木造でレール幅が広い1435㎜(*日本の新幹線と同じ標準軌)とは・・。

 

「土砂降りの雨も忘れしばし楽しんでしまった」後は起点駅ラムバッハまで戻り、18時、西方オーストリア第三の都市リンツ(地図↑↑・中央上)経由でウィーンまで向かいました。

 

(メモより)「急行の割にはよく停まり(*快速のよう)、遅れ、乗客はどんどん増すは、向かいのアベック(カップル)はいちゃつくは、で急きょリンツで乗り換えた」

これが大正解だったのは、ハンブルク(西ドイツ北方)発のI.C(インターシティ・国際列車)に乗れたことでした。

 

西ドイツ編成の列車は時速200㎞に耐えられる構造で座席は最新式(コンパートメント/6人用個室の方は従来のもの)。

さすが揺れも少なく乗り心地抜群!

あっさりと5分の遅れも取り戻し、122㎞/h(*1時間に進んだ距離)と速い表定速度は、途中でさっきまで乗っていたウィーンに先に着くはずの”遅延列車”を追い抜いてしまったのです。

6.9AS・オーストリアシリング・100円で500mlのビールを飲めばうとうと、あっという間の2時間でした(20時44分・ウィーン西駅着)。

 

通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約14.4円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

このあと乗る夜行列車は3度目ともなればだいぶ慣れてしまいました。

乗り込んで座席を確保した後は寝るだけです。

オーストリアユースホステルが少なく見つけにくい・見つけてもバカンスシーズンで満員、それでいて周遊パスがあるとくれば夜行列車の利用頻度は予想外に増していくばかりでした。

そして予想外に増すは"疲れ"も、、、。

 つづく

 

 

 

昭和の東西ヨーロッパ行 103 街か保存鉄道か ザルツブルク オーストリア No.594

2月、親の引越し処分品で見つけた見慣れぬ「スイートコーン」。

よく見るとあの丸いマーク/ロゴ(三越)に当時なら遺伝子組換えうんぬん気にしなくて済んだ?と思う、へき地県境民です。

驚くことに、中身は変色もなくいやな匂いがしませんでした(だからと言って食べてはいません)。

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月10日(木)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在8日目

(地図と写真はグーグルマップより)

 

ザルツブルク(地図↑↑・中央)ユースホステルに荷物を置いて(連泊)、久しぶりに重いリュックから解放されたこの日。

ほとんどの観光客が旧市街と新市街を目指す中、湖が点在する近郊のローカル線を乗り継ぎ私鉄(保存鉄道)湖(地図↓↓・右の大きいやつ)まで往復してきました。

 

(便せんメモより)「5日連続の雨に傘の店は見かけず壊れかけた傘を使い続ける」・・今なら”人に聞けばいいのに”と思うばかり・・・。

当時コンビニやホームセンターはなく、スーパーは食品スーパーのみでした。

広場で開かれていた”市”は”植物市”・・(食べ物や傘には関係ない)。

 

10時発の急行で東へ30分。

山国の中でもスイスのように高く険しい条件と違い、比較的なだらかで穏やかな景色が続くオーストリア

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipONoZpDwGTm876qN_l4i2i_Ub3yxR0YuSN7y7Pn=w426-h240-k-no

(ローカル線沿線の湖)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPH9d3hiAmauCeRwbWqiE_RjrMdsPggNzdTmN1O=w408-h288-k-no

(沿線 一見フランス、されど近寄ると家の形が明らかに違う)

 

道路とルートが違い鉄道は東北部のフェックラマルクト(地図↑↑・右上)まで進み、ここから私鉄(保存鉄道)で湖まで14㎞を狭軌(1067㎜・JR在来線と同じ)で40分。

かなりゆっくりなのは駅の多い私鉄(保存鉄道)ならではでした。

(メモより)「おっと!チンチン電車がいる!」

「それは木造の超おんぼろで東欧のそれにも劣るとも勝らない」

 

バカンスシーズンゆえか、ちょうど本日は”特別列車運行日”で、なんと”レストランカー付”とは・・・(*総延長14㎞です)

「まるでファン感謝デーみたい」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNjJUFcgM8yPLPg7DkScGyDinFuuiMCUdVXYIIZ=w426-h240-k-no

(途中駅)

 

途中に踏み切りはあれど”(遮断する)棒はなし”。

なので、警笛ファンファン~曲がる鉄路を右に左にノーロノロ・・・。

よくも古い車両を保存するものだと感心するばかりでした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNWQCt4_LLGeSx3_kOZJu2xVuFzsu037RcujFPE=w426-h240-k-no

(私鉄 ローカル線 終点 今でも営業/左のような古い車両は今も健在なようです)

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipP1Sjp_YFnH2HdG5Uvg2ab1f_8w4jiefeawAoWn=w408-h306-k-no

(終点の湖)

 

終点の先、湖まで下りてみると、このあたりの湖群の”親分肌(*大きさで)”は周辺に複数のキャンプ場はあるは人はいるは、雨の中・・・(*さすがバカンスシーズンです)。

ヨットや小舟もたくさん・・。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMbsjV8jQcpctFhwWlcxskquH2vtzsOHBW-vhGN=w408-h306-k-no

(湖畔のヨットハーバー)

 

バカンスをのんびり過ごすヨーロッパの人々に優雅さを感じながら、のどかな景色に心はなごむばかりでした。

 

帰りの列車も”とことこ”で、なんと!”運転室が出入り口”とは・・・。

昨今お騒がせ/一部問題になっている「撮り鉄」はこの地で見かけることはほぼありませんでした。

 

オーストリア国鉄線に戻れば、ここでもまた”車内検札(切符拝見”。

時々”パスポート拝見”もあり、ここに来て急に厳しくなってきました。

まさに夏のバカンス(旅行)シーズン/お祭り本番です。

 

(メモより)「雨は降り、止み、降り、止み、降る」

「やっと見つけた傘は2000円以上するのでどうしよう」

 

## 気づき  ##

オーストリアの流行なのか女性の服は他国と違い、”ショッキング”オレンジ・ブルー・グリーンと決まっているかのよう

アメリカ産のたばこは各国で見かけても、やはり日本産はない

ザルツブルク ユースホステル 宿泊スタンプ ドイツ語で"若者のゲストハウス"も、小学生の団体さんからカップル、家族連れ、高齢者までたくさんの国の人々に利用されている)

 

 つづく

 

 

 

 

昭和の東西ヨーロッパ行 102 バカンスシーズン到来 宿は満員 どうにかする オーストリア No.593

(今日日桜の開花が話題の1ヶ月前/3月上旬 ドカ雪後の岩手県/釜石線鉄橋

川の堤防沿いの道は真っ更で"雪中行軍"が楽しめました)

 

親の引っ越しでたまたま見つけた「薬の説明書」で、両親と同じ薬を飲み始めたことが判明しショック!のへき地県境です。

どちらが先に逝(い)ってしまうかは?

 

今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

7月9日(水)

フランススイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在7日目

(地図と写真と小さい文はグーグルマップより)

 

西のウィーンから東へ向かう夜行列車。

2時45分(*真夜中です)、突如”検札(切符拝見!)”で起こされた後はうつらうつら・・・。

今一つスッキリしないままずっしり貯まる”疲れ”の原因は、逃した宿(*ユースホステル)の代わりに夜行列車を継続し安息日(休養日)を設けることができないためでした。

 

6時半。

夜行列車で3度目のインスブルック到着後、形だけでも”キッチン(台所)”があるユースホステルへ徒歩25分もむなしく”本日も満員”・・・。

親切にも宿の方は市内に複数あるユースホステルに電話をしてくれたのですが・・・(朝からすべて満員)。

それは、7月上旬、本格的なバカンスシーズンの到来/夏祭りを意味していました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipO-AruuMs84pajxcH6ffjfc9dnhI5SUGfsLaV0U=w408-h306-k-no

インスブルック

 

(便せんメモより)「そういえば昨夜の夜行列車はインターレイルパス/ヨーロッパ人用1か月有効を利用する学生さんやらなにやらでえらく混んでいたっけ」

 

取り敢えず駅近く(*エキチカ)のスーパーで食料を仕入れ、リュックを25㎏オーバー?と重くしてから”イタリア経由の急行で"自炊可ユースホステル"まで行こうと画策しました。

 

朝食を含め駅で2時間のんびりした後の11時。

ディーゼル機関車が3両の客車をけん引する列車は南へ向かい、えらく険しい山の中へ入っていきました(*地図↑↑・インスブルック下のボルツァーノ方面)

 

チロル地方と呼ばれるこのあたりはとてものどかな風景が続きいい感じですが、もちろんチョコ(*当時10円)は売っていません。

 

気分よく過ごしていると車掌さんに言われたのは、「オーストリアチケット(周遊券」は「ドイツ経由線(*再びオーストリアに入る)は有効」でも、「イタリア経由線は無効(*別料金)」ということでした(そんなん知るか~)。

周遊券に英語の説明書があるわけでもなく、言われるまでわからない例でした。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNLzc6lNHUqabWAFewCTrIciYomNaST_bh3EU40=w408-h271-k-no

(越境した イタリアの町 ブレンネロ)

 

そう思う間に47分でオーストリア車両は国境を越え、イタリア ブレンネロ(*地図↑↑・インスブルック下のボルツァーノの上あたり)へ到着。

なぜかお金を払わずに済みました。

これ幸いとパスポートを見せ、折り返し12時発のインターシティ(都市間連絡優等列車)で再びオーストリアへ・・・。

 

(メモより)「短時間でも人・文字・国旗にイタリアを感じる」

「このインターシティミラノ⇒オーストリア⇒ドイツ⇒オーストリア⇒ドイツの運行で、この駅からなんと!機関車5重連!!(オーストリア4両+ドイツ1両)”一度に回送”ですか・・・」

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNz6CXMV4Svg28fRxkv-4HsPKu37xBam8KDYuYQ=w519-h240-k-no

(沿線 チロル地方

 

無事お昼過ぎに朝降りたインスブルックに再び降り、お目当ての国際列車「トランザルピン(ウィーンからスイスのチューリッヒバーゼルまで運行)」でドイツ経由ザルツブルク(地図↑↑・中央)へ向かいました。

ところが連日の疲れからかオーストリア編成(*スイス編成もある)の車内や車窓を楽しむ間もなく”寝落ち”・・・・・。

そのまま2時間後の15時半、味気なくもザルツブルクに着いてしまいました。

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNWdHlWBVbzlxFWwhCWFwtYWYhs5k0VEXZocY7Q=w408-h306-k-no

ザルツブルク駅)

 

ザルツブルクは東アルプス山脈を望む、ドイツと国境を接するオーストリアの都市。街はザルツァッハ川によって二分され、左岸には中世やバロック様式の建物がある歩行者天国のアルトシュタット(旧市街)、右岸には 19 世紀のノイシュタット(新市街)があります。旧市街には有名な作曲家モーツァルトの生家があり、彼の幼年期の楽器を展示する博物館になっています。

モーツァルトチョコ”は有名なお土産です。

 

”i"(インフォメーション・案内所)で”日本語のパンフレット”をもらい、さっそくユースホステルに電話をすれば電話機が壊れていて1AS(オーストリアシリング・14円)はさようなら~(戻って来ません)。

幸い2台目の電話機で通じれば「OK」の答えに救いの神(の声)を感じたのでした。

 

(メモより)「徒歩30~40分は考えず(*疲れで考えられない)、12AS/オーストリアシリング・175円でバスに乗る」

 

通貨単位はオーストリアシリングで1ASシリング=約14.4円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

無事ユースホステルで受付を済ませ、電気コンロ1台・4か所のキッチンで暖かいものを食べることができほっと一息・・・。

一息ついた後休憩室を探すと、350名収容の巨大な室内に人・団体さんが!

規模は違えど京都のような知名度のある土地、ザルツブルク

 

(メモより)「新幹線の騒音をはるかに超える声は階段を反響し、いられる場所は8人部屋のみ(*厳しい・・)」

 

ちょうどこのころ雨も降りだし4日続きの雨日に・・・。

混み混みバカンスシーズン/夏祭りの甘くはない格安宿を思い知らされるバックパッカーでした。

 つづく