(国道45号線 ゴミ拾いウォーキング中に見かけた昭和の看板2枚 遠方の三陸で果たして東京/大塚-角海老宝石さんの需要はあったのか?)
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
7月20日(日)
フランス⇒スイスから小国リヒテンシュタインを抜けてオーストリア滞在18日目。
(地図と写真はグーグルマップより)
西部の都市インスブルック(地図↓↓・ドイツ・ミュンヘン下)は朝から曇り。
(便せんメモより)「街の路面は濡れ、低く流れる霧状の雲はオーストリア名物か」
本日は休息日(=日曜日)。
ドイツ入りのための下調べが充分ではなく、調理ができて素泊り50AS・オーストリアシリング・600円と他に比べ格安なユースホステルに連泊することにしました。
街へ繰り出せば日曜で人影少ない街中も旧市街だけは別、絶えることのない人並みでした。
(インスブルック トラム・市電)
川にはカヌーのスラローム競技用ポールが設置され、登山電車(*形が斜めになっている)も見えました。
遠くに目をやるとジャンプ台がある!
歩くこと20分。
70m級でしょうか?
傍らの記念碑には22年前の1964年に行われた冬季オリンピックの各種目別メダリスト名が刻まれていました。
”着地エリア”は意外と狭く、周りを囲む”観客席の広がり”がきれい・・・。
急な階段を登りジャンプ台から市街地を見れば、なんと勾配の急なこと!
(インスブルック市街を望む)
今はもう使われていないようで、22年の間に木枠は崩れ落ち落書きが痛ましいのは、訪れる観光バスの量が物語っているようでした。
のんびりスケッチをしてから降りる途中、初めて日本人の団体さんを発見!
ほぼ建物のみの街中まで戻っても日曜閉店・閉館ではたいした行き場なく、川を渡り、また川を渡り、またまた川を渡る・・・。
いつしか川に隣接する公園に足を踏み入れるとどこからか音楽が・・・。
(川に隣接する公園)
公園内の野外音楽堂では「アメリカン・ミュージック・アンバサダー」という高校生ブラスバンドがヨーロッパ公演で演奏の真っ最中でした。
ヨーロッパと違うマーチ、デキシージャズ等いかにもアメリカらしい張りのある曲の生演奏を2時間も聞き、とても有意義な時間を過ごすことができたのは幸運でした。
演奏終了後、かなりの距離を歩きユースホステルに戻れば、バカンスシーズンも重なり”喧噪(けんそう)まみれの、いつもの日常”が待っていました、のはずがこの日の夜は特に・・・だったのです。
ドイツ語噺家(はなしか)さん二人が夕方5時から部屋(*ドミトリー・大部屋)でずっと話をしていました。
英語噺家さんやそのほかの民族の方々はその大声を迷惑そうに、それでも黙っていました。
午後10時。
邦人バックパッカーも寝袋(*おそらくシーツ代節約のため)に入ったけれど寝付けず困った困った・・・・・(耳栓はない)。
たまらず、他のドイツ語噺家さんが「‘*+_?><|~=(%%)ビッテ!(プリーズ・お願いします)」
結局、明かりを消してみんなが寝入ったのは午後11時過ぎのことでした。
(メモより)「個人主義という名の利己主義が毎度まかり通る」
「強いて言うなら仏教徒、は念仏を唱えるしかない」
念仏を唱える・・・そんな気になったのは、まだ若き旅行者だったからかもしれません。
いい年齢になった今なら”言葉が通じようが通じまいが、ゼスチャーを交えてでも主張する”ことでしょう。
言葉のケンカなら日本語は迫力があり最強です(#汚く聞こえるとも言う)。
思ったことは主張して・・・主張が通るか通らないか、結果はそれからです。
(元オリンピック選手村?)
(ジャンプ台脇にて)
つづく