三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

昭和の東西ヨーロッパ行 22 西ドイツ国境の町から ちょこっと隣国 オランダ 多国籍 アムステルダム 欧州 No.513

毎月配布される広報誌。

9月は13種類に面食らう、へき地県境民です。

毎月の「市、公民館、駐在所、支所、社協だより」から、交通安全協会消防団、市民文化祭、夏祭りのお礼、草刈り、などなど・・・。

一昨日「港にサンマ水揚げ100トン超え」のニュースとは裏腹に「地元スーパーは安くないので買えなかった」という地元民の声。

低所得へき地県境民にご縁は、、。

 

今から37年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。

「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。 

 

4月22日(火)

西ドイツ西部、国境の町の友人宅に荷物を置いて、1週間の隣国オランダ訪問6日目。

ロッテルダムユースホステルから朝8時すぎの列車で33分、海沿いの町、Hoek van Hollandフク・ファン・ホラント(地図↑↑左下)へ。

一つ先の終点、岬駅まで30分歩いてご対面するとそこは風の町。

春風なのか、海を渡る強風が吹き付け体にこたえます。

昨夜も”一枚しかない毛布を2段ベット(上)から落としたため、ついに風邪をひき”鼻水旅”にしてしまいました。

ここから20数キロ川を上った、川港ロッテルダムに船は集結。

この町をはじめとして対岸(イギリス)へフェリー航路がいくつもあり、後日別航路から上陸する予定ですがはたして・・。

ロッテルダムに戻り、(デン)ハーグCSではないHS駅)乗り換えでアムステルダムスキポール空港行に乗り地下にもぐった先、隣が空港でした。

(便せんメモ)「不思議なことに空港の方が”両替率”がいい」(*通常はよくない)

「このところ、ドルが下がりに下がり、先週1ドル2.56Fr(=200円)が本日2.41Fr(=190円)であちゃ~(*両替は持参したドル札です)」

(*今と真逆でドルが弱い時期だったようです)

通貨単位はFr/オランダギルダー(#ユーロ加盟国は現在ユーロ€)で1Fr=約78円

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)。

 

「この新線、終点は2つ先で何もない。30分歩いてアムステルダム・アムステル駅から列車に乗った2つ先、やっとアムステルダムCS)中央駅へたどり着く」

(現在のアムステルダム・アムステル駅・グーグルマップより)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipONXM4hU0sD6JFgAK0zTD3Bp5ytyue1cfzVR27J=w426-h240-k-no

 

(メモより)「再びのアムステルダムはやはり風強く、4月下旬、気温10度以上でもベンチに座っていられない」

「14時、ロッテルダムユースホステルで会った日本人女性と駅で合流、2か所の市場へ」

携帯電話のない時代の待ち合わせは”前もって待ち合わせの場所と時間を決める(約束)”しか術(すべ)がありませんでした。

・古着を含め服は安め、ただし使った下着まで売っている

・食べ物市場では、小さい紙箱に入ったいちごが1.75Fr=150円

フライドポテト、マヨネーズがけ2.25Fr=180円(*オランダはドイツのようなケチャップではなく、酸っぱくないマヨネーズ)

 

再び”ユースホステル(公式)でないユースホステル”に荷を下ろし、オランダ最後の夜はインドネシア料理(*元オランダ領で、スーパーでは”ナシゴレン”の缶詰も売っていました)、まれな外食です。

”肉の入っていない混ぜご飯”10.5Fr=840円は安い方でしたが、「人件費の高い国」に意識が必要です(*今では消費税とサービス料も加算されそうです)。

 

アムステルダムの広場 グーグルマップより)

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipMg9I_hWV4zvRE3tTP0j0Ipgmq1m5InNJFbFKxt=w408-h306-k-no

食後に港を散歩し彼女の話しを聞けば、(メモより)「彼女はつわもの」

「両親の離婚・たばこ・外国人との生活。タイからインド、そしてオランダへ・・・たくましい」

当時、”単独で旅をする日本人女性”を見かけることは、それほど多くはありませんでしたが、「宿に戻ると一大和撫子やまとなでしこ・女子)がいて盛り上がる」

(メモより)「外人ごっちゃでペラモゴモゴしてたら12時」(就寝~)

アムステルダムは外も中も、黒人の方もいてどこまでも”多国籍”、エネルギッシュな街でした。

 

 つづく