やすさんのX/旧ツイッターによれば、昨日のテキサスのガソリン価格は1ガロン3.199ドルで1リッター125円、安めだそうです。
とある真夜中3時、開けたガラス戸から30m先、防災無線のスピーカーの爆音「(サイレン===)市内~○○○○から~建物火災が~発生しました~!!!(3度繰り返す)」が突然聞こえ、いやおうなしに目が覚めるへき地県境民です。
1時間後の爆音、「○○○○の~建物火災は~鎮火しました~!!!(3度)」で起床です。
今から37年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
4月20日(日)
西ドイツ西部、国境の町の友人宅に荷物を置いて、1週間の隣国オランダ訪問4日目。
今日も週末日曜日。
3泊したアムステルダムから南部に移動します。
週末、各種施設の”休み”に慣れ始めたところですが・・・なかなか。
今度は南部の小さな港町、Vlissingen/ブリッシンゲンと呼んでしまいそうなフリッシンゲン(地図左下↓↓)行のI.C(優等列車)で2都市(ハーグ・ロッテルダム)を抜け、雨の中”海へ”向かうこと2時間半。
島の南岸/終点の港町まで来ても雨は雨。
お隣の州都、ミデルブルグかミデルブルクと呼んでしまいそうなMiddelburg/ミデルブルフには”跳ね橋”がありました。
(ミデルブルフ グーグルマップより)
(メモの便せんより)「町は小さく、人一人くらいしか見かけない(*きっとイメージです) 今日は日曜日」
ちょうどその時橋の方向から”音がして”ゆっくり時間をかけて橋が上がり、小船がゆっくり通過したようです。
商業施設のトイレ前には”中年のお姉さん”が座っていて、料金(小銭)を徴収していました。
のどかで、のんびりとした時間が流れる町、それでも雨は雨。
(メモより)「30分歩き回っただけで、どっぷり”濡れ場”を味わった」
午後、”(濡れ)ねずみ男”はロッテルダム(地図↑↑)へ向かい、3時半着と移動の日は早目に宿泊地へ・・。
(最近のロッテルダム・グーグルマップより・当時これほど高層階の建物は皆無)
ユースホステルはなんと”2両の地下鉄”を乗り継げば駅の前。
こちらで初めて”日本人のホステラー(宿泊者)”と会いました。
当時日本人やアジア人と会うことはかなり少なく、”現地在住の移民”と間違われることも・・・。
フランスでは、当時多く移住していた影響か”ベトナム人か?”と言われることも。
なので、「私は日本人です」という現地語は結構重宝しました。
夕食のパンを調達しに行こうとすれば今日は週末日曜日。
ほとんどの店は閉まり、それでも(メモより)「マクドナルドのような店でパンをわけてもらう」(*ラッキーです)
帰り道。
港に高さ80mほどあるタワー(入場料10Frギルダー=780円)はあれど見るだけ・・・。
通貨単位はFr/オランダギルダー(#ユーロ加盟国は現在ユーロ€)で1Fr=約78円
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 。
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)。
(メモより)
「公園で唯一ちょっとだけ咲いていた青い花が感動的」(*まだ寒さ残る4月です)
「戦争破壊で今までのような”ヨーロッパの景色”がない新しい街」
「大きな港 それでもとても第二の都市には見えない・・2両の地下鉄ですから」
ユースホステルは共用スペースでの食事と談笑が済めば、それぞれ男女別の部屋。
シャワーしかないまだまだ寒さ感じる春ならば、じっくりシャワーに浸かり温めましょう・・・。
大都市にある、驚愕の300人という収容人数(ユースホステル)。
比例して建物も大きいがらんとした4月の宿。
そうして夜は地味に過ぎていきました・・・・・。
つづく
(港で日本人のホステラーさんのカメラを使い)