三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

YH ユースホステル 昭和宿の今 AERIN(アエリン)ユースホステル 釜山 韓国(大韓民国) No.374

昭和40・50年代、旅する若者の間に君臨した宿、「ユースホステル」。
一時期1泊2食付2000円台でしたが時代が変わり下火になり・・・。
当時利用した宿のその後をたどってみると・・・。

 

今から40年前、昭和57(1982)年3月

初の海外旅行一人旅で韓国(大韓民国)で訪れた唯一のユースホステル

AERIN(アエリン)ユースホステル(釜山プサン 大韓民国廃業

釜山港からバスで

(紺色のスタンプはかすれて、、、)

2月24日。

広島、宮島の「ユースホステルまこと会館」を出て、その日のうちに山口県下関市まで普通列車で乗り継ぎながら移動、釜山行きフェリーに乗り「暗闇の対馬(地図の長い島)」をかすめること一晩。

2等客室は雑魚(ざこ)寝の「じゅうたん部屋」で、日ごろ見ない服装(韓国)の方々がたくさん乗船していました。

初めて一人で訪れる海外。

岸壁にたくさんのコンテナが並ぶ大きな港街が近づくにつれ、ワクワクした記憶いまでも、いつまでも・・・。

上陸(滞在)期間は2週間。

都合の良いユースホステルがなく、釜山以外は「オンドル(床暖房)」のある民間の宿(日本で言えば”和風”)に。

鉄道ファンは「特急セマウル号」を始めとする鉄道に乗りたかったのですが、「格安で便利な高速(韓国語で、コソク)バス」でぐるっと一周〜。

それでもところどころは鉄道(普通列車)に乗って・・・。

米軍基地のある浦項(Pohan/ポハン)。

蔚山(ウルサン)の奥、歴史の町慶州(キョンジュ)の仏教寺院仏国寺(ブルククサ)では写真を撮って僧侶に怒られ、なぜか覚えていた韓国語で「ミアナムニダ(ごめんなさい)」。

大日本帝国時代の名残り「うどん(同じ発音)」は、見た目は同じでも汁が辛い!!

それは「たくあん」も。見た目は黄色でも辛い!!

北上して、ソウルからは有名な板門店は避け、北朝鮮境界の京義キョンギ線終点までガラガラの客車に乗れば、沿線に韓国軍基地が見え、途中から銃を持った兵士が乗り込んできて・・(終点駅の先、線路跡は”北へ”続いていました)。

ソウル市街、パゴダ公園(タプコル公園)は大日本帝国からの独立運動が起こった場所。

ロッテデパートで韓国歌謡テープ(カセット)を買い。

レストランでクッパクッパブ・500円)を頼んでそのまま食べようとしたら、お姉さんに「まじぇて(混ぜて)ください」と日本語で言われ。

仁川(インチョン)までは山手線に似た電車に乗って・・(往復)。

南下して、城壁の町全州(チョンジュ)はとで、百済(くだら)時代の最後の都、白馬江流れる「扶余(プヨ)」は自然豊かな町でした。

南下は海辺の町麗州(Yeosu/ヨース・全羅南道)まで。

宿で食事(シクサ)を頼んで初めて「韓国のり(塩のついたのり)」を金属の長い箸で食べ・・・(確かにのりはうまかった)。

釜山行き普通列車(木造客車)に乗り込んできた物乞いに「ベクウォン!ベクウォン!!(100ウォン・当時33円⇒今10円以下・をくれ!)」と言われ100ウォン硬貨を一枚。

釜山近郊の「松島」は海に面し海産物が有名でも呼び名はソンド。

釜山に戻り、やっとユースホステルに泊まることができました。

降りるバス停を案内所のお姉さんに聞いたら日本語で「国民学校!(小学校)」と言われてしまいました。

ノートには「ユースホステルというよりはビジネスホテルで立派な建物には驚いた!日本人に会えてよかった」。

制服を着たボーイさんと肩組んでパシャ!(写真)

食事は街にくり出し「代表的な韓国料理「プルコギ」は当時もそれなりの値段でしたので、食堂で家庭料理を頼み小瓶の焼酎・眞露(ジンロ)をラッパ飲み・・・。

楽しい思い出ができますた。

また来るぞ!という想いは、5年後大韓航空乗り継でソウル金浦空港(仁川いんちょん国際空港ではない)を利用するも、その後の忙しさとぎくしゃくしている日韓関係であきらめモードのまま。

残念ですが二度目はないか・・・・・も。

 

訪れた宿の数「68」のうち

廃業した数60
今も営業中8(うち休館中2)