(5日、花火大会の夜/山形県酒田市日和山公園、高台の灯台、まわりに見物客がびっしり)
なぜかよく旅先で小バエが腕にとまり、追い払うこともはばかられしばし観察する、へき地県境民です。
今から37年前の1986(昭和61)年、前年転職直後にやめたおかげで皮肉にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
4月3日(ドイツ アーヘン/ブリュッセルとボンの間)
午後、曇り空の中”サファリパーク”に行くというので小学校に行くと、そこにいたのはベンツの大型バス1台。
乗客はフランス人御一行様でそこに乗せてもらうことに(同行を頼んでくれたドイツ人アヒムは仕事)。
彼らがフランス中部の地方都市から、春のイースター休暇(キリスト教復活祭)で交流のあるドイツの町を訪れていたことを知ったのは、もう少し後になってからのことでした。
だから昨夜食事を用意したのか・・・(夜遅くの到着)。
「小学校に泊まり、自炊をしながら観光地を回る」は日本では考えられないことですが、すばらしい活用法です。
だだっ広い平原の中を走り到着した、雨混じりのサファリパーク。
彼らにとっては珍しい場所だったようで、こちらも楽しまねば・・されどフランス語の壁は高く厚く・・・・・。
飛び入り東南アジア人に興味のあるフランス人は・・・・・・・チ~ン!(残念、、)。
その日の夜はパーティー。
もちろん場所は彼らの滞在先、小学校です。
内容は”ゲームをしてダンスを踊ること”でしたが、ダンスにトラウマのある日本人がおとなしくしていると、「あなたを誰も相手にしないから」と踊ってくれたのは一人のドイツ人少女でした(あ~ぎこちないこと極まりない自分・・・)。
飲まず食わずで気が付けば深夜1時をとうに回り・・・。
「雪は降る 私は寝る」。
4月4日(ドイツ アーヘン⇔ライン川下り)
9時半、曇り時々雨の中、ライン川観光のベンツになぜかいる私(またまた乗せてもらいました)。
片道150㎞、アウトバーンありの道中、コブレンツ左のメンディヒ上”マリアラーハ”という古い修道院を見歩きながら、朝作ったサンドイッチ(朝スーパーにできたての丸いバンズのようなパン「ブローチェン/小さなパンの意」を買って作る)をほおばる。
彼らフランス人たちも持参した昼食を摂り、”外食”はなし。
日本人はこんな”自炊旅”に息が詰まるでしょうか・・・(自分は自然に受け入れることができました)。
午後3時半。
コブレンツからレストラン付の客船に乗り、南へライン川下りが始まりました。
ところどころ惰行しながら、山肌に広がるブドウ畑と点在する古城を巡る遊覧船。
川に沿って左右に形成される街並み、鉄路、そして道路。
途中「ローレライ」と日本語が岩肌に大きく書かれた岩を通り、2時間はあっという間でした。
運賃は団体割引半額で10.20DMドイツマルク(=1DM78円で800円)、フランスの団体さんに感謝感謝です。
国税庁が発表した民間給与実態統計調査の結果によると、昭和61年(1986年)の平均年収は386万円でした。
35年後、2021年(令和3年)の平均年収443万円(14.7%上昇)と比べると、約13%低いです。
下船後、初めて喫茶店に入り、おのおのが好きな飲み物を注文。
グラスビールやビスケット1枚がついたコーヒー・紅茶などでそれなりの時間を(1杯200円台だった記憶)。
メインは「みんなで話しをする」ことです。
そのあと、1時間の散歩は17歳の少女(ドイツ人)が話し相手(英語)をしてくれ、彼女いわく「誰も(あなたを)相手にしてくれないから」、そのあわれみごもっとも、お慈悲に感謝します。
フランスの人たちも物を勧めてくれたり、「来たいなら(フランスに)おいで(英語)」と言ってくれましたが、”お呼びでない””こりゃまた失礼しました~”の雰囲気、無きにしもあらず・・・・・(迷惑になりそうで結局行くことはありませんでした)。
学校に帰着したのは午後8時。
(便せんには)「ホスト役のアヒム(独英仏語を話す)を残し帰り寝る」(疲れはそれなりに・・・)
1階は納屋、2階3階は友人が住み、4階の屋根裏部屋に住む彼は、この家も両親のプレゼントと言う。
彼の両親はどこに住んでいるのだろう?
夕刻から降り始めた雪がますます小さな町を静寂にし・・・・・(おやすみなさい)。
つづく