三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

大みそかの旅立ち 正月明けの式 No.392

(明けまして・・・・は控えさせていただきます)

 

12月30日(金)の夜。

総合病院に入院中の知り合いの関係者から”経過報告”がありました。

それによると、どうも”あんばいがよくない”のです。

”そろそろ”とも。

点滴をしながらの「自宅療養」が思わしくなく、入院することになって病院まで付き添ったのは約2週間前のこと。

それから1週間後、24日(土)に介護タクシーで「一時帰宅」した時が実質「おわかれの会(よくある”後日”のとは違います)となったようです。

写真は25日(日)に戻った時に撮った病院入口の小さなバス待合室です。

日曜、入口が閉じられ駐車場も閑散とした横の待合室ではJR気仙沼線BRT(バス)の運行具合が確認できました。

壁に現在の「療養費」が貼ってありました。

つい2,3日前まで「つぶしたイチゴ」を口に含むことができた容体に、年末恒例の「圏央までの南下」を決断したのですが、”あんばいがよくない”と聞き”準備”も視野に大晦日を過ごすことになりました。

 

彼女(患者さん)とは同い年です。

震災後三陸沿岸部で片付けがあった際、県央までの荷物の移動で、トラックから家具を搬入するお手伝いを1時間お願いしました。

当時、同じ県央に住みながら、(人口が増えすぎて)分断された「南と北」なこともありあまり会うことはなかった思い出があります。

 

12月31日(土)早朝。

LINEにメールが来ている表示(ロゴ右上の数字)が出なくなって久しいので開けてみると、1通。

「午前1時に永眠」でした。

 

県央の総合病院から地元の総合病院に移った10月。

先生は「年を越せるかな」という見立てをし、え~そんなに短いの?(歩けるしまだまだ元気だよ)と思いましたが、当たってしまいました。

2週間前まで「ごく普通に会話」しながら入院。

その時点で体重は半分に。

点滴をしつつ、りんごやいちごなどの果物を少量食していましたが、先生が「食べられなくなったら・・・」の意味は「点滴をしたら」ということだったのかと。

1週間前には「声が出なくなり」「筆談」へ。

 

ネットでいろいろ調べると、「意識がなくなってから2週間」が”目安”などと載っていて、意識はあるから大丈夫と南下を決断した12月の最終週。

それでも素人は「もしかすると正月明けか翌週・1月中には」と思っていたのですが、最終週で一気に容体が変ることもあったのです。

 

「昨日(29日)亡くなった方の葬儀は年明け5日(三陸沿岸部)」と30日に聞いていたので、”卒業式”はそのあたりの流れになるかと思いつつ、連絡を待って「北上」します。

それが元旦となるやもしれません・・・。

いろいろやる事をはしょっても、生きていればまたチャンスはあります。

圏央から深夜の国道16&4号線を、いい年こいて走り抜けること、県央まで最短で9時間。

そこから三陸自動車道経由で最短2時間(トイレ休憩は含まず)。

事故には細心の注意を払い”進む”だけです。

 

統計によれば、彼女の年齢で”旅立つ人”は10人に一人の割合いだとか。

”平均余命”はあと28年とも(ちなみに男・自分は23年)。

さて、自分の番はいつになるか、いつなってもいいように、今年は「終活元年」の年にして、毎年「更新」するだけです。

思いっきり明るい、カラオケの達人(本当に歌がうまかった)との思い出に浸りながら、ご冥福をお祈りする正月になりそうです。

 

それにしても急でした。