2011年3月、東日本大震災で被災し3月末閉校した石巻市立大川小学校(左)と大川震災伝承館(右)
平日も見学者は絶えず
震災当日、地震後再三の「山に避難の声」や「チャンス」も校庭待機
大津波警報44分後、校庭から橋に向かって移動した細い道の先は「行き止り」だった(★本当です)
移動1分後津波が到達、校庭で渦を巻き、児童と教師合わせて84名の命が消えました
5分で登れる裏山に避難していれば・・・・・・・・・・・・・・・
合掌
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
9月2日(火)
北欧フィンランド滞在6日目。
フランス⇒スイス⇒オーストリアから北上、ドイツ⇒デンマーク⇒スウェーデン⇒フィンランドへ。
(地図や小文字の文はグーグルマップ/Copilotより)
夜行列車で東(ヨエンスー)から西(トゥルク)へ(地図↓↓)。
昨夜、22時35分に乗った夜行列車には参りました。
普通座席を倒しひじ掛けを跳ね上げたまではよかったのですが、”隣が喫煙席”で若者4人に騒がれ、加えて走行音を跳ね飛ばすほどのアナウンス(録音/女性の声)が時折激しく車内に降り注いだのです。
(便せんメモより)「7時、第二の都市タンペレ(地図上↑↑左)から乗った、耳の遠いおばあさん二人が向かいに座る」
「外は静かで霧模様、中の”音量”は変わらず」
(沿線の森林に囲まれた町)
9時半。
11時間半かかって着いたトゥルクはフィンランド第三の街。
(メモより)「人口が10万人を超える街はこの国に3つしかない」
(バルト海に面したフィンランド最古の街/約200年前までの首都 トゥルク/スウェーデン語: Åbo/オーボ)
トゥルクは歴史的にスウェーデンとのつながりが強く、公的にバイリンガル都市、人口の5.2%はスウェーデン語が母語です。
駅徒歩20分のユースホステルに荷物を置きさっそく街歩きすれば、途中にあった”市場”はとても興味深い場所でした。
いわゆる”八百屋”さんは少なく、目立つのは首都ヘルシンキでも見かけた”いも屋”さんと”いちご(ベリー)屋さん。
何軒かが細々と並んでいるさまに、商売は素人の邦人でも(メモより)「たいしたもうけにはならないだろう」と感じたようでした。
角のハンバーガー屋さんでは、ポテトフライ(小)8マルカ・300円、(中)12マルカ・455円か・・・。
通貨単位はフィンランドマルカ(FMK)で1マルカ=約37円(*現在はユーロ)
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)
ムーミン流行りの今ならば、この街の西隣ナーンタリにあるムーミンワールド(入場料6310円)に立ち寄っていたでしょうか・・・・・(*夏期のみ営業で当時はない)。
この日の昼、ディーゼルカー3両で約1時間ほど西に足を延ばした場所はウーシカウプンキという人口1万人ほどの港町(地図・↓↓下)。
写真の”水たまり”のようなところにヨットが並び久しぶりに太陽が顔を出す、日中の気温が14度の町でした。
(ウーシカウプンキ スウェーデン語でニュスタード、ニースタードなどとも呼ばれ、全然発音が違う・・・)
しばし駅周辺を歩き回ってみれば、鉄でできた大きな錨(碇/いかり)が目印の公園や広い広場はあっても意外に海は見えず・・・。
(現在の観光名所 ”風車の丘”)
グーグルマップで町の場所を確かめれば、今ではこの町に鉄道はなく、あるのはバス停だけになったようです。
鉄路なきあとの道は大小さまざまな湖沼を縫うように走ります。
夕方までにフィンランド第三の街トゥルクに戻り港まで散歩すれば、シリヤライン(フェリー)航路があるこの街にも、あちこちにある川に様々な船や帆船(練習船)がところ狭しと係留されている・・・。
港には”煙突に赤といかりマーク”のソ連船が何隻が停泊し、お隣はバイキングライン(スウェーデンの会社)。
その隣は首都ヘルシンキまで乗ったシリヤライン・・・。
(メモより)「乗船待ちの客でフェリーターミナルは閑散として・・・」
(海事博物館 入場料1463円)
川や海の船の”混みよう”はユースホステルも同じでした。
混んで64マルカ(素泊り)・2368円に、つい空いて27マルカ・900円の宿と比較してしまうバックパッカー・・・(#同じ国内のユースホステルでもこの価格差)。
先ほどの、”乗船待ちのお客さんで閑散としたフェリーターミナル”とは真逆の一夜も、各種騒音に悩まされることなく就寝できたのは”不幸中の幸い”、いや泊まれてうるさくないのは”幸い中の幸い”だったのです。
つづく