「エンジン音」で連想するのは車(バイク)やジェット機あたりが一般的?な中、けたたましい音を奏でる「草刈り機」も頭に浮かぶ、へき地県境民です。
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
8月7日(木)
フランス⇒スイス⇒オーストリアから北上、ドイツ滞在17日目。
(地図と写真と小文字の文はグーグルマップより)
西部の大都市ケルン(地図↓↓)でこの日の行先に迷いつつ、40㎞も離れていない北方のデュッセルドルフへ向かうことに(*格安宿・ユースホステル所在地であることが条件ですが、自炊のできる”台所付き”は少ない)。
(左隣はオランダとベルギー)
サッカーファンの方ならご存じかもしれない、今やブンデスリーガで多くの日本選手が所属する(した)ドイツ。
ケルン・デュッセルドルフ・シュトゥットガルト等大都市ではない”ボーフム(36万人・浅野拓磨)”や”レーバークーゼン(人口16万人・細貝萌)”などという都市も周辺に見受けられ、当時とは隔世の感を覚えます。
(現在のレーバークーゼン)
(現在のボーフム)
ケルンからデュッセルドルフまでは急行でわずか25分”。
あまりにもあっけなく到着してしまったため、さっそく夕方までユーレイルユースパス(周遊券)を使い久しぶりに近郊のローカル線に乗ってみました(*鉄道ファンです)。
デュッセルドルフ東方の(ドルトムント南方)のハーゲン(HAGEN)という町までは約50㎞くらい。
駅間が短く80分かけて鈍行で進む”聞いたことがある都市”が連なる沿線は、かつて社会や地理の教科書に出ていた工業地帯でした。
それも38年たった今では”かつての工業地帯”に・・・・・。
(途中の駅 駅舎はいたるところに落書きだらけ・・・)
(〇〇〇〇〇ハーゲン、あるいはハーゲン〇〇〇〇〇などという名の駅が域内に何か所かあるのはよくあるパターン)
途中のゾーリンゲン(地図↑↑・ケルンの右上)は帰国6年後に始めたリサイクルショップで長年にわたり刃物(未使用)を扱いずいぶんお世話になりましたが、この時は知るよしもなく・・・(*ゾーリンゲンは人口16万人の刃物の街で歴史と伝統があります)。
次にドルトムント(地図↑↑)南方のハーゲンからドルトムント東方のウンナ(UNNA)へ向かい20分で到着、ちょうどお昼になりました。
(平地や平原が続く沿線)
駅前の立ち食いスタンドで売っていたのは、”ソーセージ・フライドポテト・パン”と典型的な組み合わせでした。
(便せんメモより)「むむむ!!駅のホームではソーセージ・パンしか売っていない」
どんなにおいしい本場の食べ物でも何回か続くと恋しくなるのは食べ慣れた味・・。
米飯・・はなかなか食べる機会がありませんでした。
台所がある(炊事のできる)ユースホステルでないと、日本から持参した味噌汁や日本茶(*それぞれ小分けされた)を口にすることは難しかったのです。
なので、なかなか減らない米や調味料(*最低限の)などの食料(*重量物)を持ち移動する日々・・・。
ウンナからお隣のドルトムントまで30分かからず午後一番に着けば、そこは大きな街でした。
(現在のドルトムント駅)
かつての工業地帯として知られ、ルール地方の代表的な都市
また交通の要衝・鉄道の結節点でドルトムント・エムス運河で200㎞以上離れた北海と航路がつながっています
かつて石炭と鉄鉱石を産出、鉄鋼業が栄えると共に、世界有数のビール生産地でしたが産業の構造変化によって衰退し、現在はハイテク産業や第三次産業に力を入れています
(便せんメモより)「大きな街はだいぶ見たので・・(*似たように見えたか?)」
ドルトムント駅前の”うろつき”も早々に格安宿・ユースホステル所在地・デュッセルドルフへと乗った列車は、”Sバーン(近郊列車)”という各駅停車。
連なる各都市ごとに乗客を入れ替え、工業地帯を進みます。
(途中のエッセン中央駅 人口58万人の街 建物正面にドイツ国鉄”DB"マーク)
やっとドルトムントから90分かけて戻ったデュッセルドルフ中央駅。
この日ケルンから午前9時半に着き、6時間かけ周辺を1周すればもう午後3時半。
ユースホステルは徒歩15分の好立地でしたが、この時なぜか圏央のホテルで客室係だった時に入手した”ドイツ語の都市のイベントポスター(2枚)”を思い出しました。
アパートの部屋に飾り見慣れていた、写真(↑↑)のポスター”いかり・ハンブルク(北方にある)港まつり”の左隣、”デュイスブルク”がデュッセルドルフの隣市で”台所マーク(自炊ができる)”のついたユースホステルがあるのを発見し直行しました。
急行で一駅、Sバーン(近郊列車)で一駅、徒歩30分。
ドイツ国内で何か所か利用し、ユースホステルにあまり期待はしていませんでしたが、宿は予想を大きく外し”ワースト1・2位”を争う場所となったのです。
確かにそれまで利用した日本のユースホステル(75か所)も夏休み期間中は混んだ時代でしたがトラブルは皆無(*むしろオフシーズンの方が当たり外れが・・)。
ところがこの宿のいくつかの、日本ではありえない”難(悲劇)”にこのあと悲鳴を上げ続けることに・・・。
つづく