三陸 海 旅 つれづれなるまま

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昭和の東西ヨーロッパ行 181 東西ベルリンの壁/西ベルリンを囲む ドイツ No.672

かつて1日2本あった隣県から/への特急バス1本になって久しい、へき地県境です(*JRのBRTバスは複数あり) 利用者が皆無な中、ひっそりと立つバス停

昨日(平日)、隣県隣市で見かけた大型バス(特急)に乗客は2名でした

 

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今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。目的地の

旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。

 

9月21日(日)

フランス⇒スイス⇒オーストリアから北上、西ドイツ⇒北欧4か国(デンマークスウェーデンフィンランドノルウェー)を経て西ドイツ・東ドイツ経由で西ベルリン(2枚目の地図・↓↓)へ

(地図や写真、小文字の文はグーグルマップ/Copilotより)

ハンブルクから南下し、ハノーファー/ハノーバー(地図・↑↑)乗換えで西ベルリンへ。

https://image.space.rakuten.co.jp/lg01/58/0001050758/95/img22653eb6zik3zj.jpeg

(当時分かれていた東西ドイツ・上の地図と比較してみてください)

 

有名都市ベルリンユースホステル(西側)では何人かの日本人と会いましたが、この日は単独行動で西ベルリンの街を歩いてみました。

ベルリンと言えば、まずは””(地図・↓↓・赤線)

 

https://shikanai.co.jp/wordpress/wp-content/uploads/2019/08/05cb89d84d5c0c1a759e9fa312bd1b50-648x499.jpg

(地図は「旅するらぷる」第九回その3。ベルリンの壁を巡ります。 | しかないせんべいさんからの引用*どうぞご参照ください)

ベルリンの壁 構築・・・ドイツ分断の象徴 | チューさんの今昔ばなし - 楽天ブログ

 

 # # # ベルリンの壁 # # #

第二次世界大戦後、ドイツは東西に分割されベルリンも東西に分かれました

東ベルリンはソビエト連邦の影響下、西ベルリンはアメリカ、イギリス、フランスの影響下にありました

1961年、東ドイツ政府はベルリンの壁を建設、西ベルリン間の移動を完全に遮断

総延長は155㎞にも及びました

壁は冷戦の象徴として28年間存在、多くの人々が壁を越えようとして命を落としました

1989年11月、東ドイツ政府は市民の西側への旅行を許可、壁は事実上崩壊 

これがドイツ再統一への第一歩となり、翌年東西ドイツは正式に統一されました

 

ユースホステルから西ベルリンをぐるっと囲む””までは歩いてすぐそこ。

ほどなく見つけた場所にあったのは”一面が落書きで埋まった壁”・・・。

それは”いたずら?” ”自己表現?”それともどちらも??

 

約5mほどのやぐらに登ると、間(距離)を空けて簡単に”東側”を見ることができました。

(32枚目の便せんメモより)「壁周辺の建物は東西共に新しいものがない・・・」

規制があるのかなんなのか、その訳は不明でした。

 

”東側”の壁は2重いたる所に監視所があり、望遠鏡を持った東ドイツの兵士が見張っていました。

 

さらに、有名ポイント(処)”チェックポイントチャーリー(検問所)”まで徒歩20分。

現場はそれなり観光客が集まり、遠くから出入り口を見ながらわいわいがやがや・・・。

それとは対照的に出入り口を見張る東側の兵士がピリピリした雰囲気で何かを怒鳴っていました。

「近づくな!」と言ったのか、はてまた「写真を撮るな!」といったのか・・・。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipPi--N1WM6OnIWEPiw3Tj-RYbSgf0utoFct-HfL=w408-h305-k-no

(チェックポイントチャーリー 現在は白い外壁の検問所と小石を敷いた境界線で当時の地味な面影はありません)

 

このあと”壁の博物館(写真↓↓)”まで移動し「ことの次第」を見れば、様々な手段で東側から逃れたことがわかりました。

穴・ロープ・川中・車のタンクの中・気球・トランクの中・USアーミーに成りすます・替え玉入出国・飛行機など・・・。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNGyhKnYOlL7JF528C95R9PWaXkdpgvRu7Vvg1v=w408-h269-k-no

(”壁の博物館 現在の入場料1642円)

 

さらに、人の増えた壁づたいに歩いてみれば、かつてこのあたりが大通りだったことを示す広い道幅と西側から伸びたトラム(市電)の線路が壁の手前で分断されたさまをまざまざと見ることができました。

それも何本も・・・・・。

 

(メモより)「ベルリン西側だけでもかなり大きい 東西合わせたら東京23区の比ではないだろう」

確かに891㎡ありました(東京23区は627㎡)。

その中をひたすら歩き、何か所かあるやぐらに登り”東側”を見れば、この状態は実に不気味でした。

米英仏・三か国駐留軍対ソ連軍(旧ソビエト連邦)。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipM6X-axtWGN20ibeOPAdu1RwWJ0Fd5EmEAFQJE7=w408-h306-k-no

ベルリンの壁ならぬ城壁あと)

 

大通りにある有名な分断の象徴「ブランデンブルク門(写真↓↓)」はその通りを東西に遮断して遠くからでもよく見えました。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipNaifG9JhlSPzLGHOn6hFKSlGWaXXhaIrPeCMdU=w408-h272-k-no

(統一の象徴・現在では自由に通行できる門も当時は閉鎖され、”格子(柱)”から反対側をのぞくだけでした)

 

今ならスマホ地図で簡単に到達できるだろう”旧日本大使館は探しあぐねてしまいました・・・。

 

この緊張が解けたのは、ロンドンにあるような広い公園から壁から遠く離れた場所へ移ったあとのこと。

ラクタ市”では北欧で節約していた反動から、思わず食べるほうに走ってしまいました。

・ポテトフライ 1.7と2マルク・140円と165円

・カレーヴルスト(ソーセージ)1本 2.5マルク・200円

・ビール 330ml 1.5マルク・125円

 

通貨単位はドイツマルクで1DMマルク=約82円(現在はユーロ) 

国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円 

35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)

 

(メモより)「しかして、物価の安い西ドイツで自炊ができない(*ユースホステルに台所がない)のは痛い」

 

この”異常な街”は”陸の孤島”そのもので、このままでは二度と首都にはなりえないだろう、という想いを強く持ちました。

しかしてそこは大都会ベルリン

ついに来たという感動は大きなものでした。

 

政治的な理由でその存在が続く街、ベルリン

それから3年後の1989年。

その壁が崩壊することなどみじんも思わず、、、、、。

 

 つづく