(岩手路 道間違いも楽し、、、)
市の広報誌で紹介された新生児3人の名前、光佑くん、櫂渚くん、開澪くん
このうち読めたのは"こうすけ"くんのみ "かいな"くん、"あお"くんは??だった、へき地県境民です
# # #
今から38年前の1986(昭和61)年、転職直後の離職で幸運にも実現した長旅。
「旅と鉄道好きが一生に一度多くの国を訪れる」条件に合致したのは、当時東西に分かれていたヨーロッパでした。
9月24日(水)
フランス⇒スイス⇒オーストリアから北上、西ドイツ⇒北欧4か国(デンマーク・スウェーデン・フィンランド・ノルウェー)を経て西ドイツ・東ドイツ・東西ベルリン経由でポーランド(2枚目の地図・↓↓)へ。
(地図や写真、小文字の文はグーグルマップ/Copilotより)
(当時分かれていた東西ドイツ・上の地図と比較してみてください)
(東ドイツの首都 ベルリン/東ベルリン テレビ塔隣接 アレキサンダー広場 カフェハウス/飛行場など 0.2DDRM/東ドイツマルク・17円の絵はがきより)
昨夜、東ベルリン21時55分発(*実際は22時過ぎ発)ポーランドの首都ワルシャワ行夜行列車/国際列車は予想外の出来事の連続でした。
東ベルリンが始発と思いきや、西ドイツ西部の街ケルンからやって来た列車。
そのうち、座席車1両とクシェット(簡易寝台)だけがすでに停車していたソ連(旧ソビエト連邦)の寝台車8両(*なんと各車両にホステスがいた!)と連結され出発!
(34枚目の便せんメモより)「たった1両のコンパートメント(個室がいくつかある)」は通路にまで人と荷物であふれかえり”動けない!”(当然座れない)」
「しばし東ベルリンの夜景を楽しみ、この時期にしては暖かい街を壁のせいと思う、なんちゃって」
通路にしゃがんで眠りにつこうと思った、出発1時間後の23時。
幸運にもコンパートメント(個室)にいる女性(ポーランド人?)から「(*予想訳)ここが空いているから座れ!」と言われ、向かい合う4人掛け✖2人の一角に滑り込むことができました。
(東ドイツ 沿線)
やっと座席でうたた寝すること30分。
日付が変わるかどうかの”境”で、どうやら国境にさしかかった模様。
今までほぼフリーだった西ヨーロッパ諸国間(*東ドイツを通過する西ベルリン間を含む)と違い、”東ヨーロッパ諸国間の出入国審査”は・・・。
(ポーランド側 国境の駅)
まず最初は東ドイツのパスポート係官が出国のハンコ。
次にポーランドの係官がパスポートチェック。
持ち込む外貨額や時計などの貴重品を申告するだけで荷物は調べられませんでした。
と、そこにカシオの電卓を持つオルビス(*ポーランドの国営旅行社)の社員が来て”強制両替”をしていくはずが、なぜか隣のドイツ人だけに行うと去って行ったのです・・・・・。
このことが、あとで再び両替に苦労することになろうとは・・・。
(メモより)「闇レートで両替できればラッキー、さもなくば公定レートでやむなし」どころではなかったのです。
最後に女性車掌の検札があり、もしこの時点で切符がなければまずいことになっていた(=最悪、切符を売ってもらえずに次の駅で降ろされた可能性が・・・)。
という具合に2時間以上”出入国のごたごた”が続き、ちっとも寝ることができないまま朝を迎えることに・・・。
大地が明るさを取り戻し始めたころ、寝ぼけ眼で車窓をのぞけば、飛び込んできた景色にひどく驚かされてしまいました。
おそらく首都ワルシャワ近郊まで来ているはずなのに、広がる原野に時折畑が混じり、古い平屋の家々が立ち並ぶ集落の道路はなんと未舗装・・・(*全面土です)。
深い泥のわだちを優雅に歩くは”にわとりの群れ!”
それは、今まで訪れた西ヨーロッパ諸国では決してお目にかかることのない、東ドイツをはるかにりょうがする”貧しさぶり”でした。
(沿線)
遠くにトラクター工場を望んだりしながら、7時45分、列車は地下にもぐったあと駅に停車、そこが終点ワルシャワ中央駅でした。
(メモより)「11年前の1975年製で建てられたわりに、東欧らしい”地味さ”際立つ駅は切符売り場が正面だけで16もあり、そこには人・人・人の列・・・」
これでもまだこの時は少ない列だったことを後日知ることに・・・・・。
(今ではマクドナルドやスターバックス、スーパーマーケットもある 建替えられた立派なワルシャワ中央駅)
列車内で話しをしたポーランド人の女の子に助けられ、両替所まで連れて行ってもらいました。
ポーランドの方々がどうして日本人に親切なのかは、のちにわかることとなります。
ところが、8時に開くはずが8時10分に開いた両替所で”トラベラーズチェック(小切手)は扱わない”と言われてしまいました。
当時は2度の購入者サインで安全性が高いと言われたトラベラーズチェックも、その後のクレジットカードやデビットカードの普及で利用は減少、日本国内では2014年3月末で新規発行が終了しました。
両替可能な国営旅行社オルビスの営業所は見つけられず、ならばと4つ星ホテルで替えようとすれば”隣に行け”(*まだ営業していない)。
隣のホテルに行けば営業開始は同じ9時から、、、。
”いい加減な対応”に”そんなものか”と慣らされていくバックパッカーでした。
(現在の4つ星ホテル 朝食付55000円で当時の物価を含めた面影は皆無)
ところが9時営業開始が8時50分になる、真逆のハプニングがあり、やっと50米ドルをポーランドズロチに両替することができました。
50米ドル⇒9819ZT・ズロチ
1ズロチ・0.94円は、ドルに両替後旅行を開始した3月末時点の1ドル184.5円計算。
それが9月下旬に1ドル150円で0.76円になっていたとは・・・(*約2割の円高)。
通貨単位はポーランドズロチで1ZTズロチ=約0.94円(現在もズロチ)
国税庁発表の統計によると、1986年(昭和61年)の平均年収は386万円
35年後、2021年(令和3年)は443万円で約15%上昇(約13%低い↑)
当時、旅行者のバイブルであった”地球の歩き方(旅本)”には1ズロチ1.98円と書かれていて、訪れた時はちょうどそれが半分以下(0.76円)になっている、、、。
物価の安い国が輪をかけて安くなったのです。
今思えば、当時の”米国の圧力による急激な円高パワー/日本国の力?”はものすごいものでした(★このことは帰国後、残った外貨を両替する時為替差損が10万円単位で発生することに、、、)。
つづく