三陸 海 旅 つれづれなるまま

三陸沿岸 へき地移住者の暮し 旅の話など

1896年 1933年 2011年 地震と津波は繰り返す 三陸沿岸 No.643-A

県央にて親の病院への送迎途中に城趾下で待機すれば、あたりは夏休みのにぎわい

大型バスの高校生や観光客は有料駐車場、一方地元民はトラック/マイクロバスまで後面奥の行き止りをUターンし無料側道へずらり、、、、、、、、、

(前面奥に降車後歩く白服の学生さんたち)

 

先日、知り合いのヤフオクヤフーオークション)委託品が落札され、発送ついでに初めてヘルメット姿でサイクリング。

 

リアス海岸が続く三陸沿岸。

森の中から表の国道45号線へ出る頃にはパラパラ降る雨もやみ、それはサイクリング続行を意味していました。

 

こじんまりとした、決して広いとは言えない敷地に高台移転した住宅と市営住宅(戸建て災害公営住宅)が立ち並ぶ地区を通り過ぎ、かなり傾斜のある坂を下ればそこは半島へ向かう道との分岐点です。

このあたり一帯も多くの場所が津波でさらわれ、奥に残る家々を除けば新しくなった川の堤防と海まで続く広大な草地が広がるだけでした。

 

地元の方もあまり通らない幹線から外れた道沿いにひっそりと建っていた古い”津波の石碑(↓↓)”。

あたりに建築物が一切ない場所に、中年サイクリストを除けば訪れる人は皆無・・・。

石碑は村だった昭和8年に起きた岩手東方沖を震源とする”昭和三陸地震”のあとに建立されたもので、同じようなものは他の場所にも複数存在します。

 

表には 「地震があったら津波の用心

 

裏に何か書いていないか見てみると・・・。

(遠方の海から川を越え押し寄せた津波 石碑の下にはヘビではなく紐が・・)

 

石碑が元からこの場所にあったのか移設したのかは不明でしたが、

裏に書いてあったのは、

 

「義金(義援金)を町村へ分配した残りで建立」

 

・地区の溺死者 23名

・住宅流出 33

・住宅全壊   4 

・漁船流出・破損 11(動力)

・ ”    ”   54(無動力)

・馬死        2

 

昭和8年の津波は、明治三陸地震から37年後に発生し、地震直後に避難を始めた人々が多かったことで、犠牲者は少なかったと考えられています(Copilotより)

 

本当にこの地区の犠牲者は少なかったのでしょうか?

 

1896年(明治29年)大地震と大津波

37年後の1933年(昭和8年)大地震と大津波

それから77年後の2011年(平成23年)、東日本大震災は起こりました。

 

はたしてこの石碑は防災・避難に役立ったのでしょうか?

地元の方に聞く機会はなく、結局よくわかりませんでした。

 

Copilotによれば東日本大震災で、

かつて漁師町として栄え古くから交通の要所である地区で、115戸の住宅のうち約40戸が津波で流出

被害は甚大で、高台に移り住む住民も多かったものの、防波堤の基礎が見えるほどの津波により街の景色が一変

 この大震災による死者数は、地区の詳細な数字は提供されていませんが、市全体での死者数は約1,783人

このような災害を教訓として、防災対策や避難計画の重要性が再認識されています

 

こんなところにポツンと1基。

はたしてこの石碑は見学者の訪問を受け、今後の防災・避難に役立つことができるのでしょうか、、、、、?

 

(防潮堤が完成した港/遠くは隣県の半島)

 

このあと、新しくできた橋の先にある小舟が何艘(そう)か停まる港まで行けば、遠くの隣県の半島は青空覗くこちらと違い霧に覆われ始めていました。

それは、山も海も天気は変わりやすいだけでなく、局地的にみる必要があることを実感する光景でした。

 

帰り道。

何年かぶりに乗った自転車で平地少ないリアス海岸のかなり急な坂を登り降りし、くたくたになりながらも出発地点まで戻りましたが、翌日体力の衰えを思い知らされることに・・・。

 

中高年にとって、自動車だけでなく、ふらつく恐れもある自転車も充分危険な乗り物になりうることを体感しました。

 

自転車引退の日まで、"軽自動車にマウンテンバイク搭載"で平地少ない三陸沿岸の決まったコースを行ったり来たり、、、。

 

https://lh5.googleusercontent.com/p/AF1QipN_zq7fduKYL1cjG1fExOOL3nrOnxVUc6-bDXsC=w408-h306-k-no

(立派な防潮堤が完成した地区の港/船はどこに/釣り人はのんびり、、、)