月初めに11月のカレンダーをはがし、最後の一枚になりました。
先週たまたま見た、来年の”100均カレンダー”はそれなり見やすく、書き込み安い素朴なタイプ。
さて来年のカレンダーはどうしましょう・・・と思っても、どこからか回って来るのでまったく気にはしていません。
遠い昔、バブルと言われたころ、サラリーマンがいた会社には毎年さまざまなカレンダーが置いてありました(自社のは取引先に配り)が、30年以上給料上がらず税金は・・の今でも余って廃棄処分する事業所(事務所、店舗)はまだまだありそうです。
実家に行けば、「絵心が??の宗教家が撮った風景写真入りカレンダー」がいやでも目に入り「今年もだ」。
子どもの会社のものも、これまた「取扱い製品を使った完成品(車)が中央に鎮座するバランスが??の絵入りカレンダー」。
そんな中、病院で配られるカレンダーはモノトーン(白黒)のもので、毎年地元の昭和の写真が使われているものです(確認しましたが発行元や著作権の表示なく、引用させていただきました)。
昭和30年代を中心として、20年代や戦前のものも・・・・・。
今と違い印象的なのは「そこに多くの人が写っている」ことです。
人口は昭和55年(1980年)ごろの92000人(合併する前の1市2町の合計)をピークに、2000年で82000人、今年2022年には6万人を割り込みました。
今後、2030年に48000人、2045年に33000人と予測されています。
昭和30年。
当時はいろいろなものが木で作られていました。
すべり台も例外ではなく・・・。
写真の「大堀銀座」はどこだろう?と調べてみると、港から市役所にかけての道で、当時は一等地だったようです。
複数あったデパートの一つに入ったのは震災のだいぶ前のことでした(今は建物なく)。
当時「みなとまつり」が開かれたメインストリート。
今では日中歩く姿もまばらです。
ボンネットバスが走っていた、山間部の「水梨(みずなし)小学校前バス停」は、開校146年目の平成31年3月閉校後どうなっているのでしょう・・・。
「新巻鮭」はこのような感じで県央の住宅地の魚屋さんにもあった、子供のころは身近なもの(身近に見たもの)でした。
今はあちこちの川で放流する稚魚の確保に難儀して・・・・・(漁獲量は激減)。
今年も今月中に通院する方がモノトーンカレンダーを病院から頂いてくるかも?・・・(淡い期待ですが果たして・・・)。
先日。
「最低単位」しか使わない移住者のポストにもガス屋さんのカレンダーが挟んでありした(申し訳ない気持ち)。